2019年07月26日

活動報告

弦巻楽団×北海道大学CoSTEPコラボレーション企画「私たちが機械だった頃」を観劇しました

 

渡邉洋子(2019年度CoSTEP本科 対話の場の創造実習)

 

「日本人はシャイなので対話を活性化させることは容易ではない」「日本人は自分の意見がない」そんな言い古されたようなエクスキューズはただの先入観だったのか……。私自身がそう痛感させられた演劇が7月13日、中島公園に隣接するシアターZOOで開幕しました。私の参加した14時の回と次の18時の回ともに80席用意した観客席は満員御礼となりました。

 

(演劇のワンシーン:写真提供 弦巻楽団)

 

劇場には桟敷席よろしく客席が段々に設置され、座布団が置かれていました。あらかじめテープで6人毎に区分けされてはいましたが、言われなければそれに気付かないくらいに会場は暗く少しの閉塞感がありました。ステージと呼ぶべきなのか、ダイニングセットが置かれた空間を挟んで向こう側にも2段ほどの観客席。演者を挟んで観劇する「はさみ舞台」と言う手法のようです。

 

劇場の雰囲気や客席の配置「健康管理のために機械(ノーティティア)を体の中に埋め込む」というテーマは、この企画の大きな仕掛けには違いないのですが、決して目新しいものではないでしょう。また、今回の大きな特徴は「観客参加型」であること。ですが、これも様々なアートイベントを熟知している人にとっては決して斬新なわけではない。今回の企画の肝はむしろ「科学では解決できないテーマを認知した時、対話がどういう役割を果たすか」というオープンタイプの観察があったことだと観劇後の私は思いました。

 

 

(稽古場での様子:写真提供 弦巻楽団)

 

開演……この演劇が「参加型」であり、「対話のグループワーク」がなされることなどがCoSTEPの種村先生と古澤先生から事前説明。事前に設定されたグループ同士お互い自己紹介しながら、場の空気が少し安心を纏ったように感じました。私はファシリテーターとしてそのグループの対話を促進すべく参加したスタッフでもありました。当初、演劇やドラマにあまり入り込めないタイプの私には向いている役目だと感じていました。が、ひとたび、演劇が始まるとそのユーモアを含んだ心地よいテンポに誘われあっという間に演劇に夢中になりました。

 

 

可愛い妻と未来の家族のために、ノーティティアを妻にも入れてほしい夫の奏斗(かなと)。
感覚的な違和感と、そんなものを入れなくてもあなたの健康は私が守る、と言い切る妻、明日菜(あすな)。
同じ思いなのに、アプローチがちがうことですれ違う二人の世界。
過去の記憶から生じる自分の健康への懸念を「余計な負担をかけたくない」といって妻に伝えない奏斗に対して「余計じゃないわよ。余計にしないでよ。……二人のことなのよ。」と返す明日菜の叫びが印象的でした。

 

(演劇のワンシーン:写真提供 弦巻楽団)

 

ここで演劇は幕間となり、会場はディスカッションの時間になりました。私を含めた観客は、それぞれ自発的にお互いの顔を見ながら「私はこちらの意見ですね」と事前に配られていたカードを示し、「個人としては」「社会としては」と理由をつけて話し出しました。テーマを自分事のように受け取り、考え、話せる人たちがその場にいたのです。「自己紹介とか、話すとか、そういうの嫌いなんだよね」と仰っていた御仁も、明確に自身の意見を発していたことは心強く思えました。

 

実は、ディスカッションで一番火が付いたのが当の私。多分演劇に感動しすぎたのでしょう。また、出産の際に毎日自身の健康状態を数値として管理した経験のある私はこの問題に関心がありすぎました。私の経験は「なんとなく」機械を体に入れたくない明日菜とシンクロしたのです。一通り自分の体験談と持論をぶちまけたところで制限時間いっぱい。「6人全員が話すのに、10分は短すぎ!」と感じました。とは言え、会場内どのグループもかなり盛り上がっていました。ファシリテーターが配されていないグループの方が話に花が咲いているように感じたほどでした。

 

このあと、意外にも自分が愛する母親にノーティティアを入れることを決断する明日菜。

 

科学技術そのものに「正しい」「間違い」の判断が出来ない事実を、会場全体が共有した不思議な瞬間でした。演劇修了後も、なんだか名残惜しくて前の席に座っていた方と、隣に座っていた女性と話を続けました。またどこかの公演でお会いしましょうね、と言葉を交わしたのです。

 

(終演後の様子:写真提供 弦巻楽団)

 

 

この演劇には「答え」がありませんでした。ハッピーエンドだったのか、バッドエンドだったのか? そう簡単に御すことのできない問題提起で終わっています。なのに、私たちには不思議な満足感が漂っていました。問題提起されているのに、モヤモヤしない。自分の頭の中はスッキリしているのです。それは、問題に対して自分事として「思考した」という実感が伴っているからではないでしょうか? しかも、それを自主的に表現し、分かち合った、という達成感と共に。

 

その日、たまたま同じ演劇を見るために居合わせた初対面の人たち。年齢も、性別も、バックグラウンドも様々でした。日本人はちっともシャイではない。そして自分の意見を持っている。場の雰囲気や仕掛けが働いたことは確かですが、少なくとも、この演劇を見た人たちは自分の感覚や思考が明確で、言葉を持った方々だと感じることができました。


「ノーティティア」とはラテン語で「記録する」「通知する」という意味だそうです。「集められた情報」を読み解き、運用するのは私たち人間の解釈に委ねられています。科学技術を運用するためにも、自分とは違う認識の存在に気づくためにも、「対話」という手法を活用し、科学を自分事にしていくことは出来る、と実感できた日でした。

 

(出演者とスタッフら:写真提供 弦巻楽団)

 

=======
弦巻楽団×北海道大学CoSTEP コラボレーション企画「私たちが機械だった頃」は、2018年度 科学技術社会論・柿内賢信記念賞(実践賞)「演劇の専門家による「対話劇」を用いた「科学技術の社会実装についての熟議の場」の創出」および、科学研究費助成事業「演劇を用いた科学技術コミュニケーション手法の開発と教育効果の評価に関する研究(基盤研究C 19K03105)」(共に研究代表:種村剛)の助成による。