過山博士の本棚から


#5 遺伝学者の光と影

2018年07月12日

北大の周辺には、何軒もの古本屋があります。天井にまで届く本棚、床にもうず高く積まれた古書。学生が売り払った教科書、研究者の蔵書だったとおぼしき専門書… 古本屋にふらりと立ち寄れば、埃とインクのかすかな香りにつつまれ、ひと時、現実から離れることができます。

ぼんやりと、何を探すともなく本棚にならぶ背表紙を眺めていると…読めない著者名が書いてあります。「おぐま…さ、さお…??」

 

「"おぐま・まもる"です。"かん"と読む場合もありますけどね」。ちょっと呆れたような言葉と共に、すーっと薄暗い本棚の影から現れたのは…あの過山博士です。

 

「あなたが古書に興味あるなんてね…。いえ、失礼、小熊のエッセイ集『蟲の進軍』ですか…ちょうど私も小熊について調べていましてね。その本の中には、面白い…と言うよりは、恐ろしい、というか…、興味深い一編がのっています」

 

過山博士は、その古ぼけた一冊から、科学研究の闇を教えてくれたのです。

(小熊捍のエッセイ『蟲の進軍』)

 

 

講演録「人類の染色体」

 

「小熊は1886年生まれ、20世紀前半に活躍した生物学者です1, 2)。北大農学部出身で、1930年に新設された理学部の教授になっています。北大退官後は、1949年に国立遺伝学研究所をつくり、その初代所長になっています。日本の遺伝学の礎をつくった人物といえるでしょう。で、この『蟲の進軍』3)は、1946年、終戦直後の出版です」

(小熊の肖像写真。撮影年不詳)<北海道大学大学文書館所蔵>

 

過山博士に促され、ページをめくろうとしますが、紙が薄く、ざらざらしていて、なかなか果たせません。

 

「当時は紙が不足していたので、紙質が良くないんですよ…そうそこ、そのページ。その『人類の染色体』が問題の文章です。読んでわかる通り、遺伝学の話です」。

 

見ると、ところどころに図が載っています。ぐにゃぐにゃと歪んだ「へ」の字の何かが、いくつもならんで描かれています。

(「人類の染色体」『蟲の進軍』に添えられた図)

 

 

内容を理解できず、困惑している私を察知してか、過山博士は続けます。

 

「その絵は染色体です。…つまり、ですね。遺伝学は、生物の形や性質がどうやって親から子へ伝わるか、を調べる生物学の一分野です。当時は既に、細胞の中の染色体が遺伝を担う、といわれていました。で、染色体の構造を顕微鏡で詳しく調べる研究が盛んでした。特に、ヒトの染色体の本数は男と女でそれぞれ何本なのか、各国で研究されていました」

( 1924年、渡航先のベルギー、リエージュ大学にてアンス・ド・ウィニワテールと共に。

ウイニワテールはヒトの染色体研究を行っており、小熊は共同研究をした4)

<北海道大学大学文書館所蔵>

 

小熊の文章を読むと、各国での研究の状況と自説について、語るような文体でまとめられています。巻末を見ると、1939年の厚生省での講演をまとめたものだと書いてあります。しかし冒頭部分を読むと、特に恐ろしい、という話には思えません。先ほどの過山博士の言葉は、どういう意味なのでしょうか…

 

 

よい「材料」を求めて満州へ

 

「安心してください。あなたに生物学の講義をするつもりはありませんよ…。染色体の観察のためには、健康な人の、状態の良い標本が必要です。でも、なにせ人間ですから、なかなかそう簡単に標本を取ることはできません。で、彼はどうしたのか。あわてず、読んでください。その先を…」

 

読み進めると、小熊は、病気の人から摘出した精巣による標本では不十分で、より「良い」標本が必要だ、と主張しはじめます。次第に胸騒ぎがしてきました。そして次のように綴られていたのです。

 

非常に苦心を致しましたが、私ふと考えたことがあるのです。満州で匪賊を討伐して居りますが、匪賊討伐隊に加って満州に行き、その匪賊を材料にしたらどうだろうか、どの道匪賊は殺してしまうのだから、と考えついたのでした。

 

匪賊とは今で言うゲリラです。満州事変と、その後に続く戦乱の中とはいえそんなことをしてよいのだろうかと、目を走らせていくと、さらに驚くべきことが書いてありました。

 

それで私は奉天に陣取りまして、奉天の医科大学の協力を得まして、奉天の特務機関と連絡を取り、気長く時期到来を待って居りました。そうして居る中にある日幸いにも非常に良い材料を手に入れる事が出来たのであります。元より捕えた匪賊の一人です。彼はやがて軍の手で処刑されるのですが、前にもお話した様に年齢が適当でないと材料としても面白くないから、まず何歳になるかを調べてもらいました。ところが彼等には戸籍というものが無く、従って確実なる年齢を知る術はないことが判りました。けれども軍医の判断するところでは、三十前だというからまずこの点は申分ありません。次に病気の存在が問題です。しかしこれも軍医が詳しく調べた結果、別に案ずるような病気が無いと判りました。して見れば研究材料としてまず申分はないわけです。唯残された問題として、その材料を処理することです。これは奉天医大の方の御協力を得て完全にやる事が出来ました。

 

助けを求めるように、はっと顔をあげると、過山博士は顔色一つ変えずにそこに立っていました。薄暗い古書店の中は物音一つせず、逆光に照らされる埃さえ、静止しているようです。

 

「…おどろいたようですね。私の調べだと…いや、まだ調べ途中ですがね。小熊が奉天に行ったのは1932年から1936年頃でしょう5)。たしかに、今の感覚だと明らかに問題です。当時も捕虜の扱いに関する国際条約はありました。でも、日本は署名してますが、批准していません。それに、「匪賊」に捕虜としての権利が認められるか、というと、認めないという立場を日本をとっていました」。

 

 

ふたつのテキスト、書き換えられた記述

 

とはいえ、科学者が、そのような戦乱の状況を利用して研究することに、なんのためらいもなかったのでしょうか。一般向けのエッセイ集にこのような文章が載っていることも、にわかには飲み込めません。

 

「え?まだ知りたい…、そろそろ私は用事をすませて帰ろうと思っているのですが…、それほど暇でもないんですよ…まあ、いいでしょう。小熊はどう考えていたのか、それは分かりませんが、こんな資料があります。見ますか?」

 

過山博士はしぶしぶなのか、手ぐすね引いて待っていたのか、どちらともとれない様子で、カバンからひと束のコピーを取り出しました。そこにはおなじく「人類の染色体」と書かれています。そして、『民族衛生資料 昭和十五年』7)と添えられていました。1940年。日中戦争のさなか。太平洋戦争の前年です。

 

「こちらが、まぁオリジナルといえるでしょう。後に再掲された『蟲の進軍』と違って、『民族衛生資料』は専門家向けですが。で、若干書かれている内容が違います。下線部がその部分です」

(『民族衛生資料』に掲載された「人類の染色体」(1940年))

 

非常に苦心を致しましたが、私ふと考えたことがあるのです。満州で匪賊を討伐して居りますが、匪賊討伐隊に加って満州に行き、匪賊が非常に無茶な事をして人間を殺して居るようだから、その報復という訳ではないが、この度はその匪賊を材料にしたらどうだろうか、どの道匪賊は殺してしまうのだから、と考えついたのでした。

 

それで私は奉天に陣取りまして、奉天の医科大学の協力を得まして、奉天の特務機関と連絡を取り、気長く時期到来を待って居りました。そうして居る中にある日幸いにも非常に良い材料を手に入れる事が出来たのであります。元より捕えた匪賊の一人です。材料はこうしてまず理想的の者が得られました。次に来る問題はこの材料からどういう方法で睾丸をとり出して薬品処理をしたかという事ですが、その方法は機会を得てお話をすれば、学問の進歩を図る一の歴史上のエピソードになるとは思いますが、相当重大な問題でもあり、誰にでも聞かせていいという問題ではありませんから暫くは断然口をとじて置きます。しかし天地神明に誓って、これ程立派な材料をこれ程完全なる方法で処理した場合は従来断じて無いという事だけは明言できます。匪賊を一人犠牲に供しました事は決して無意義ではありません。

 

「読み終わったら、コピー…、その紙、ええ、それ、返してもらえますか。…オリジナルの方が、より踏み込んでますよね。…当時と今の状況や考え方、法は異なります。ですから現在の感覚だけで、過去の出来事の是非を判断することは妥当かどうかは、ふまえておく必要もあるかもしれません。でも……、あなたは、どう考えますか?」

 

小熊は、戦時中の専門家向けの講演録と、終戦直後の一般向けのエッセイ集で、微妙に内容を変えていました。さすがに差し障りがあると考えたのでしょうか。しかし、公開しない、という選択肢は選ばなかったのです。世界的な研究者に伍して、染色体研究に取り組んできた自負がそうさせたのでしょうか…この『蟲の進軍』は…

 

「あの、お客さん、それ、買うんですか?」

 

突然、声をかけられ、我にかえると、目の前に店主が立っていました。過山博士はいません。棚の向こうも、その向こうも探しましたが、現れた時と同じように、またも忽然と博士は去ってしまったのです。

 

 

英文誌も受理していた小熊の論文

 

結局、『蟲の進軍』を購入して、一人ふらふらと明るい店外にでました。手には一枚のメモ。本にはさまっていた、その紙には、

 

Oguma, K. Journal of Morphology, 61(1), 59-93, 1937

 

と書かれていました8)

 

おぼつかない足取りで北大の図書館にいき、論文を検索します。アクセスしてみると、確かに小熊の論文です。そこにはこのように英文で書かれていました9)

 

我々の以前の研究とは異なり、本研究は主に満州人の精巣細胞で行われた。私は幸運にも、奉天滞在中に満州人犯罪者の刑の執行という機会を掴んだ。犯罪者は約30歳で、陸軍の外科医の診断によると、あらゆる点で非常に健康だった。精巣は取り出され、最も好適な条件で固定された。固定には1)酢酸を加えないフレミング溶液と2)チャンピー液を用いた。標本はアルコールに入れて日本に持ち帰り、札幌の私の研究室で切片にした。

 

その後、同様の条件で得られた同じ民族の新しい材料が、工藤教授の好意により提供された。この材料は、2人の犯罪者から得られたもので、1人は約35歳、もう1人は約40歳で、同じ液体で固定された。

札幌の私の研究室…それは今は総合博物館になっている、かつての理学部本館でしょう。ここで小熊は何を思い、連続切片を作成していたのか… 口を閉ざしたまま世を去った今では、それはもう分かりません。私にはどう考えたらよいか、まだ分かりません。ただ、言えることは、それは確かに、あったことなのです。

 

過山博士の考えを聞きたいのですが、安易に答えを求める私を見透かすように、博士にはそれきり会えていません。

 

 

 

 

 

注・参考文献・取材協力:

1) 札幌農学校にて松村松年から昆虫学を学んだ。1929年農学部教授を経て、1930年に新設された理学部の教授。1943年には自身が設立に尽力した低温科学研究所の所長となった。有島武郎とも親交があり、現在も続く美術部、黒百合会の命名者でもある。

2) 杉山滋郎「1 小熊捍「理学モノグラフ」誕生の触媒役は芸術好き」『北の科学者群像 [理学モノグラフ]1947-1950』北海道大学図書刊行会(2005)

3) 小熊捍「人類の染色体」『蟲の進軍』北方出版社,1946

4) 染色体数について、ウイニワテールは男47本、女48本説を唱え、小熊も同じ立場をとった。1956年の蒋とレヴァンの論文によって46本と確定された。結果だけを見れば、小熊の説は誤りだった。

5) 満州への出張時期は確定できていないが、小熊の論文が発行されたのは1937年6月であるため、それ以前である。『北大時報 第六十八号』(1936, 2)には、11月6日付で「軍用鳩ニ関スル研究嘱託ヲ解ク(陸軍省)」とある。小熊は「人類の染色体」で、「匪賊の睾丸を調べるから出張を命ずという事は出来ないから、私は鳥類の研究ということにして、向うへ渡って」と記している。この「鳥類の研究」が陸軍省委託の研究であるとすると、小熊の満州行は1936年11月以前であると考えられる。『北大時報 第十五号』(1934, 1)には、1934年7月28日付で、小熊に「満洲国ヘ出張ヲ命ス」という辞令が出ている。このときの旅費は大学本部から理学部に配分された費用で負担された6)。北大時報は、すべての出張を記載しているわけではないため、これ以外の時期に出張した可能性も十分にある。

6) 杉山滋郎「雪氷科学者・中谷宇吉郎の研究を歴史的・社会的な文脈に位置づけるための調査研究」科学研究費 研究成果報告書(2015)http://hdl.handle.net/2115/59084

7) 小熊捍「人類の染色体」『民族衛生資料』13, 1940 ※1939年12月2日、厚生省での講演の速記録

8) Oguma, K. "The segmentary structure of the human X‐chromosome compared with that of rodents". Journal of Morphology,61(1),59-93,1937

9) 小熊の論文では、奉天医科大学のprofessor ShiinoとProfessor Kudo、assistant professor Suzukiが奉天滞在と、材料の獲得・処理に協力し、奉天衛戍病院のDoctor Kijimaが繊細な手術を実施した、と謝意が表されている。それぞれ、椎野﨧太郎(解剖学・人類学。満州人頭骨の計測による研究等を行った)、工藤文雄(京都帝国大学卒、生理学)、鈴木直吉(東京帝国大学卒、解剖学・人類学。満州人の脳神経の比較解剖学的研究のため、生体解剖をしたとされている)、貴島禎三(奉天衛戍病院長)と考えられる。

・北海道大学大学文書館


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