チェックイン


#122 アイヌを識る(2)~古い地図に描かれた農地を探しに~

2019年03月14日

「アイヌは狩猟採集生活を行っていた」。 5~6年前、私は高校の歴史の授業でこう教わったような記憶があります。疑うこともなかったその認識は、ある本を読むことによって、そして二風谷での出会いによってガラリと変化しました。これは一冊の本から始まった、私の二風谷取材記です。

【佐藤丈生・CoSTEP本科生/理学部3年】

 

アイヌは農耕を行っていた

 

道外出身で、なおかつ理系大学生の私には「アイヌ」の知識はほとんどありませんでした。二風谷取材を行うことになり(第1回参照)、まずはアイヌに関する本を探しました。そこで出会ったのが、北大出身のアイヌ研究者たちによって書かれた『アイヌ民族の歴史』1)です。読み進めていくと、北海道各地におけるアイヌの歴史に関する記述の並ぶなか、ある図に目が止まりました。「沙流郡二風谷村旧土人給与地」と題された図です。明治時代の1899年、アイヌを農耕民として定着させるという目的のため2)、北海道旧土人保護法が制定されました。この法律に基づき、給与された土地を記録したのがこの図です。

(1902年頃の沙流郡二風谷川向の農地図。右側が北)

<引用:『アイヌ文化環境保全対策調査総括報告書』(2006, 105)3)

 

一見なんの変哲もない図ですが、この本によれば、「おそらく、幕末、あるいはより古い年代から農耕地が拡大してきた跡が区画に残っていて、それを『旧土人給与地』として配分、給与した形の表れ」とあります。実は、アイヌは狩猟採集に加えて、農耕も行っていたのです。江戸時代から明治時代にかけて北海道を探検した松浦武四郎はアイヌによる農耕を、その日誌の中で記しています4)。また、近世・近代のアイヌとまったく同じ農法ではありませんが、考古学的な調査からも、縄文時代には既に植物の栽培がなされていたと考えられています。

 

「今、この土地はどうなっているのだろう…」。好奇心の赴くままインターネットで現在の二風谷の航空写真を探してみると、農地の区画図によく似た地形が見つかりました。「現地で確かめたい」という思いで、私は二風谷に足を運びました。

 

 

現地、二風谷を訪れる


札幌から車で約1時間半。二風谷は沙流川中流のほとりにある地域です。日高山脈に源流をもつ沙流川は、豊かな土砂をこの地にもたらし、それがこの土地の盛んな農耕を可能にしたといいます。

(なだらかな山々の間を流れる沙流川)

 

平取町立二風谷アイヌ文化博物館を訪れると、農耕に関する展示も多く見つかりました。また、アイヌの伝統料理を作るイベントに参加して、イナキビを主原料とした団子「シト」を作って食べました。できたてでやわらかいシトは、ほのかに甘く、どこか素朴な美味しさがあります。そしてそのイベントの最中、アイヌ文化博物館などで学芸業務に携わってきた吉原秀喜さん(平取町役場 アイヌ施策推進課 イオル整備推進係)にお会いできたのです。現地に来てよかった!

(二風谷のアイヌ文化博物館に展示されている農器具。右は鹿の角でつくられた鍬キラウシッタプ)

 

(シプシケププ(イナキビ)。イナキビ粉と米粉をよくまぜます。ゆでて完成)

 

 

農地は現存するのか

 

この偶然に興奮しつつ、アイヌの農地を現在見ることができるかを吉原さんに伺ったところ、あっけない事実を知ることとなったのです。


「まあ、ダメになりましたよね。ダムの下です。」

(吉原さん(左)にお話を伺う筆者。吉原さんは北大教育学部出身。卒業後、二風谷に移り住み現在に至っている)


沙流川流域のアイヌは、河原や中州に堆積した粘土質の土地に「ピクタトイ」(ピクタ=川、トイ=州)と呼ばれる川洲畑を作っていました。この農法は近世に始まり、昭和20年代頃まで続いていたと言います。しかし1997年、下流域での洪水の防止等を目的とした二風谷ダムが完成し、アイヌの農地は水の底に沈んでしまったのです5)。ネットでみつけた地形は全く別のものでした。

(左がダム建設以前(1974~1978年撮影)、右がダム建設後(2004年以降撮影)。川の右岸(写真左側)の畑がダムに沈んだ)

<出典:国土地理院ウェブサイトより>

 

(現在の二風谷ダム。この川向こうに畑があった)

 

共に農耕を再現する

 

しかし、アイヌの農耕は現在進行形で行われていました。吉原さんも加わっている「イオル再生事業」6)が、2008年から沙流川周辺で川洲畑を再現しているのです。二風谷ダムによって河原の環境が変わったため、完全に同じ方法で再現しているわけではないのですが、この取り組みの目的は農地の再現以外にもあると吉原さんは言います。

 

それは、アイヌ民族をはじめとする地域住民の方々による協働です。文献資料には様々な記録がありますが、それらはすべてをカバーしきれていません。そこで、実際に、昭和10~20年代の子どもの頃にピクタトイでの農耕を経験していた人たちに伝統的な農耕を行ってもらいます。実際に手を動かしていくことで、当時の記憶をよみがえらせることができるのです7)。研究者の文献記録と、当事者の経験によって語りだされること。吉原さん曰く「共に究めていく」作業です。

 

 

アイヌ農耕とアイヌ研究の接点

 

吉原さんにお会いした後、場所を教えていただき、川洲畑の試験地のひとつに向かいました。今年の場合、取材をした9月にはここでの栽培試験は一段落していましたが、そこには周囲の草とは異なる、植物が茂っていました。当初思い描いていたアイヌの農地はダムの底に沈んでいました。しかし、完全に同じではないにせよ、一度歴史と水底に沈んでしまった農地が、再び姿を現そうとしていたのです。

(平取橋の川下に広がる河原。このエリア一帯が、川州畑の試験地を含むイオル再生事業の「水辺空間」)

 

この旅を通して、私はアイヌ農耕の存在と実態を知ることができました。そして、大学での研究、書物による研究とは違う、様々な人と共に生み出していく新しい研究のかたちがあることも知りました。

 

しかし、アイヌと「研究」には良い側面だけではありません。過去の誤った研究によってアイヌ民族の尊厳は大きく傷つけられました。そして、その傷は未だに癒えていません。

 

《第3回に続く》

 

 

注・参考文献:

1) 田端宏「8章 アイヌ民族と幕末の日本」関口明・田端宏・桑原真人・瀧澤正 編『アイヌ民族の歴史』山川出版社,2015

2) 旧土人保護法はアイヌを農耕民として定着させ、それによって和人への同化を図るものであった。その一環として農耕を希望する者に土地が無償付与された。しかし、土地の権利は制限され、費用はアイヌと和人の共有財産の収益から当てられた。また、与えられた土地は農耕に適さない土地が殆どで、耕作を放棄する場合も多かった。実態としては「保護」からは程遠いものであった。

3) 平取町 他『アイヌ文化環境保全対策調査総括報告書』2006

4)沙流川流域の幌去村において「地形南向き畑多く、粟・稗・南瓜・胡瓜・呱吧芋・手なし・豇豆(ささげ)・麻・煙草・蕪の数多く作たり」として農耕が見られたことを記している。(松浦武四郎『東蝦夷日誌三編』1863より)

5) ダム予定地には、アイヌの方々の信仰や生活にとって重要な場所が数多くあった。そのためもあり、ダム建設差し止めをもとめた裁判が起こされた。詳しくは中村康利『二風谷ダムを問う』(札幌自由学校「遊」2001)を参照。

6) アイヌの伝統的な生活の場(イオル)を再現し、その文化の継承と普及・啓発を図る活動。詳しくは、二風谷アイヌ博物館『平取町文化的景観解説シート19, 37』 ※リンクは全シートZIPダウンロード

7) 平取町「アイヌ文化環境保全対策事業 【沙流川流域地域文化調査業務】 2016(平成28)年度 各作業分野における取組・成果の概況 <2017(平成29)年3月22日:平取ダム地域文化保全対策検討会 >」2017


同じシーンの記事