2014年10月27日

授業レポート

「“コントロール幻想”時代の医療と、かけがえのない“あなた”」 10/18 児玉真美先生の講義レポート

今回から始まったモジュール5のテーマは「トランスサイエンス」。これは、科学に問うことはできるが、科学だけでは答えることのできない領域のことを指します。

 

今回は児玉真美先生(フリーライター/一般社団法人日本ケアラー連盟 代表理事)に、アメリカで起こった「アシュリー事件」をはじめ、現在の医療と生命倫理の分野で議論されている事についてお話いただきました。

 

いつの間にか世界は恐ろしい場所になってしまった

2004年アメリカで、当時6歳だった重症心身障害児アシュリーに行った医療介入が、世界的な論争を巻き起こしました。アシュリーの子宮を摘出し、ホルモン剤の投与により成長を抑制することを親が考案し、医師に実施させたのです。この「事件」に対し、アシュリーの尊厳を侵すものだとして批判があった一方、擁護する意見も多かったといいます。

 

擁護する意見の一つにはこのようなものがありました。人は他者の人格の有無を判断する時、ただ生物学的にヒトに生まれているというだけではなく、一定の理性や自己意識の存在を前提にしている、とする議論があります。これに基づけば、生後6ヵ月程度で知的発達が止まったとされるアシュリーに人としての尊厳を認める必要はない、というのです。

 

これらの意見の根底には、「だって、どうせなにもわからない重症児じゃないか」という暗黙の前提がある、と児玉先生は指摘します。アシュリーと同じ障害を抱える娘を持つ児玉先生は、世界はいつの間にこんな恐ろしい場所になってしまったのか、と戦慄したといいます。そしてこの事件を通して英語圏の医療、生命倫理の分野でどのような議論が行われているかを追っています。

 

 

「どうせ」が広がっていく危機感

このような事件が起こる背景には3つの理由があると児玉先生は言います。ひとつは「コントロール幻想」と市場原理の関係です。子どもを自分の意のままにデザインしようとする親、臓器提供のために生まれてきたドナーベビー、近頃日本でも話題になった代理母の問題。テクノロジーが急速に発達し、人間の体も能力もいくらでもコントロールできるという考えが世界に広がりつつあります。そして、貧富の差が広がったことにより、これらのテクノロジーが新たなマーケットと消費の場を作りだしました。児玉先生は、このことがコントロールできないものは排除してしまえばいい、という考えに繋がっていると指摘します。

二つ目は安楽死に関する「死ぬ権利」議論です。安楽死は、病気などで苦しみたくない、という自己決定権のひとつとも思われます。しかし、現在ヨーロッパを中心に、子どもの安楽死の合法化、安楽死後の臓器提供、さらには臓器提供を前提とした安楽死など、その領域は広がる一方となっているのです。

 

そして三つ目は「無益な治療」論。患者を助けられないのなら無益な治療で苦しめるのはやめるべきである、という考え方です。しかし、この考えを突き詰めていけば露骨なコスト論につながり、患者の生きたいという自己決定権が失われる危険性を含んでいます。

 

児玉先生は、どうせ寝たきりになるから、どうせ重病なのだから…というように「どうせ」で片づけられてしまう領域がどんどん広がっていくことに対して危機感を訴えます。

 

 

かけがえのなさを感じて

児玉先生は、一個体の能力だけを考えた人間観はおかしいのではないか、人間とは、もっと周りの人間との関係性に基づいた存在なのではないか、と言います。例えば、自分の恋人が好きな理由を理論的に答えられないように、論理だけでは片づけられないかけがえのなさがあるのではないかと。そして人の生き死には科学だけでは割り切れない、人智を超えたところにあるのではないかと述べられました。

 

そして最後に、人が生きていることの「かけがえのなさ」を見失うことのない科学、このあり方について考えてもらいたい、と結びました。

児玉先生が指摘した「どうせ」は、医療や生命倫理の分野以外でも、また英語圏だけでなく日本でも広がりつつあるのではないか、と感じました。また、科学で割り切れることだけを絶対視するのではなく、割り切れないことにも目を向けるべきであると思いました。

 

児玉先生、ありがとうございました。

 

 

纐纈直也(2014年度CoSTEP本科/北大職員)