高校卒業後、戦前~戦後にかけて研究所技手として北大で勤務した稚内出身の画家・因藤壽(いんどう・ひさし、1925-2009)。
因藤が北大で過ごした時間をヒントに現在の北大を探検していくのが、ミニシリーズ[因藤壽と北大]です。
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現・宗谷線が全通する前年の1925年、のちの画家・因藤壽が北海道 稚内市で生まれました。
因藤が北海道帝国大学超短波研究所で働き始めたのは1943年、研究所の発足からわずか2年目のころです。
日本社会が軍事色に染まっていた当時、海軍の航空技術研究所や埼玉の理化学研究所への就職を目指していた因藤ですが、家庭の事情でしかたなく道内に留まることに。そうしてたどりついたのが、北大超短波研究所だったといいます。
のちの制作論「私の制作に於ける下層上層の関係」(1993)で、因藤はこの研究所での研究生活と第二次世界大戦からの奇跡的な復員を、自身の制作活動の基礎を形成した体験として挙げています。
しかし研究所在職中の研究に関する資料は、多くが散逸しており、当時の因藤の仕事を直接知ることは簡単ではありません。
そこで本シリーズでは、現在の北大の人々や風景を手がかりに、因藤が北大で過ごした時間をさまざまな角度から感じ取り、考えてみたいと思います。
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ところで、画家・因藤の原型を育んだという超短波研究所、実は名前を変えて現存しています。戦後、応用電気研究所へと改編されたのち、1992年の再改編で現在の「電子科学研究所」になりました。
ここまでわかれば、まずは電子科学研究所へ行ってみよう!
……と思ったら、現在の北大には3地点に「電子科学研究所」があるもよう。
では因藤が働いていた研究所は、一体どれなのでしょう?
手がかりになりそうなのは、研究所ウェブサイトに掲載されている1943年完成の超短波研究所の写真(↓)。
写真の場所は、現キャンパスでいうとどのあたりなのか。

▲ 1943年3月に完成した超短波研究所本館(木造二階建て) *1
きっと周辺木々の状態も今は変わっているし、隣の建物も最近では見かけないレトロなスタイル。どう特定していけばいいか、さっぱりわかりません。
そこで、電子科学研究所でことし広報を担当されている中野谷一(なかのたに・はじめ)先生に、この疑問を問い合わせてみたところ……
木造二階建ての本館があった場所と最も近いのは、現研究所の3つのロケーションのうち、「中央キャンパス 総合研究棟2号棟」であることが判明しました。
中野谷先生は電子科学研究所の所蔵資料を確認し、かつてのキャンパスマップから、研究所の大体の位置を推定してくださいました。

▲ 超短波研究所本館が所在したエリア付近、現在のようす(電子科学研究所 中央キャンパス 総合研究棟2号館)
実際に木造本館があった位置は、もう少し(通称・)メインストリート寄りだったようですが、同じブロックの研究棟には今でも電子科学研究所の一部が含まれています。
こうやって見ると、手がかりは建物前の車道を挟む並木道だったようですね。
現在の総合研究棟は縦にグンと長いので、横に広々していた木造の本館とは印象が全然違います。
せっかくなので、周囲も散策してみます。

写真に映っていたお隣のレトロスタイル建築はやはり現存せず。
現在の研究棟のお隣にある建物は、輪郭が全体的に四角くなっています。

総合研究棟2号館入口にて。
金属板に現代的なタイプフェイスで刻まれた「電子科学研究所」の文字。

研究所側から見た対岸の木々。
1943年の写真手前側に写り込んでいたものでしょうか。
木造本館の写真では映り込んだ木すべてが青々と茂っていますが、2026年4月の札幌ではまだ葉っぱがついていないものも多いですね。
以下、総合研究棟2号館の付近の風景いろいろです。



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因藤が年度はじめの研究所周辺の風景をどんな顔で見ていたかはわかりませんが……
今回訪れてみた中央キャンパスの電子科学研究所は、溶けきらない雪に囲まれて、まだまだ冬を惜しむ顔つきでした。
当たり前ですが、新学期が始まったからといって雪が瞬時に消えたりはしません。急な変化の季節だからこそ、ゆっくり変容する空間が輝いてみえたりするものですね。
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因藤壽を手がかりに現代の北大を冒険していく本シリーズ。
今後も各所へ足を延ばし、アイディアを広げていこうと思っていますので、どうぞお楽しみに!
*1……北海道大学電子科学研究所ウェブサイトより https://www.es.hokudai.ac.jp/about/history/