札幌農業大学の広い構内には、巨大なにれの木が、あちこちに立ってある。(中略)この学校は市民の誇りであり、また構内は一種の公園ともなっていた。白鳥や家鴨の浮いている池のほとりや、大きなにれの木の影の落ちた芝生には、黒い制服の学生たちと同じように、子供を連れた夫婦者や、季節の着物を着た娘たちや、ここを見に来た旅の紳士や、暇を盗む商店の小僧などが、歩いたり、座ったり、寝そべったりしていた。大学の小使がからからからからと快い音を立てる草刈り機を押して、いつも構内の芝生のどこかを刈っていた。
だが太平洋戦争の終った翌年である一九四六年の初夏には、この絵のようであった学園の様子もすっかり変わっていた。あの美しい芝生がことごとく南瓜と馬鈴薯の畑に変わってしまった。歩くにあんなに快かった芝生の間の道も、どういう訳か とがった石が突き出ていたり、丸太がころがっていたり、水たまりが出来たりしている。池はまだ残っているが、岸の水草の間に餌をあさる水島の姿はなく、美しい花を咲かせる睡運もなく、それは単なる濁った水たまりにすぎない。にれの木は切られなかったが、もはやその下蔭に休息のための、夢想と書寝のための芝生もなく、緑色に塗ったベンチもない。道は用をたすために歩く、不経済な遠まわりの砂利道であり、地面は、二月にもなる政府配給の欠配を、少しでも補って生きようとする飢えた人間のがつがつした心の、露骨な表情である馬鈴薯と南瓜の畝の組織である。
伊藤整『鳴海仙吉』(細川書店1950, pp85-86)新字体・現代仮名遣いに修正
「俄か作りの英語教員なる鳴海仙吉講師」が勤めるのは、公園のようなキャンパスをもつ「札幌農業大学」ですが、言わずもがな、この大学は北海道大学のことです。かつての穏やかなキャンパスと、戦後から間もない1946年夏の荒れた雰囲気との落差が描写されています。
第22回「物語の中の北大」で紹介するのは、1950年に発表された『鳴海仙吉』です。作中では中央ローンだけではなく、予科教室、大講堂、学生食堂など、北大にかつてあった建物や、植物園についても描写されています。また、札幌の町や、小樽の先にある落谷村という仙吉が住む村も登場します。この『鳴海仙吉』は、日本を代表する文学者である伊藤整(いとう・せい)(1905-1969)による作品で、一部は講演録の形をとったり、演劇のシナリオの形をとっており、実験的な小説となっています。
伊藤は道南の松前町に生まれ、幼少期から20代前半まで塩谷村ですごしました。その後東京の文壇で活躍しますが、戦争中は実家のある塩谷に疎開し、戦後の1946年に北海道帝国大学で仙吉と同じように英語教師となります。このように外形的にはかなりの部分、仙吉は伊藤をモデルにしています。
内面の仙吉は実に煮え切らない小人物で、自分の作品や文学者、教員としての素養に悩んだり、40歳にもなってかつての思い人である姉妹に会いたがったり、勝手な願望を投影したり、それらを悩む自分に悩んだり・・ 自虐的な態度は現代のキャラクターのようですらあります。
一方で仙吉の屈折の背景には戦争があります。戦時中に何ら声をあげなかったこと、文学や政治に対する姿勢を変えたこと、これらの悩みが戦後だからこそ浮き上がっている状況があるのです。今回冒頭で引用したキャンパスの描写は、その表れのひとつかもしれません。