小説家であり、北海道大学の校歌「永遠の幸」の作詞をしたことでも知られる有島武郎(1878-1923)。その有島武郎を顕彰するニセコの有島記念館に、一台の重厚な足踏みオルガンが展示されています。展示パネルを見ると、納豆博士ともよばれる北大の研究者、半澤洵(1879-1972)のオルガンと書かれています。なぜ、有島記念館に、半澤ゆかりの品が展示されているのでしょうか。
【川本思心・CoSTEP/理学研究院 准教授】
有島と半澤と遠友夜学校
有島と半澤の結びつきは北大の前身、札幌農学校にありました。2人は1901年卒の同期で、当時の集合写真には半澤と有島がいつも一緒に写っています。
そしてふたりをつなぐもう一つの場が「遠友夜学校」です。遠友夜学校は、学校に行くことができない人々のために新渡戸稲造が1894年に設立した学校です。有島武郎は1909年から1914年に第3代代表をつとめ、半澤洵は1921年から1944の閉校まで第7代代表でした。
遠友夜学校では勉強を教えるだけではなく、唱歌授業や遠足、学芸会も行っていました。有島は唱歌授業用のオルガンの新品を購入するために寄付を行い、半澤は唱歌の指導も数度行ったとされています1)。残念ながら写真の記録は残っていないようですが、オルガンを弾きながら、夜学校の生徒とともに歌う半澤の姿が目に浮かぶようです。
有島の地にオルガンがやってくるまで
遠友夜学校は、1944年に閉校となります。当時、半澤が第3代校長をつとめていました2)。それから68年後の2012年、「半澤のオルガン」が有島記念館に展示されることになりました。
現在のオルガンの持ち主は、京極町在住の音楽講師、深澤正之さん(65)です。深澤さんは、瀧廉太郎の研究に取り組んでおり、その音楽で重要な役割を担う明治期のオルガンに注目し、コレクションをしてきました。その中で、半澤家に古いオルガンがある、と聞きつけます。2006年の夏、半澤洵の長男であり半澤道郎(1910-2006、当時故人)の御宅に行ったところ、玄関にオルガンがおかれていました。深澤さんは半澤家3)からオルガンを譲り受け、半澤とゆかりのある有島記念館に預けたのです。
深澤さんの調査によると、このオルガンは有島も多くの寄付をして1907年頃に購入され、遠友夜学校で使われたオルガンだと考えられています。有島は1903年から3年間アメリカに留学していますが、その際、現地でマホガニー製のピアノやオルガンについて調べていることが当時の日記に残されています。また、制作したのは東洋社(松本楽器)ですが、部品はすべて米国から取り寄せられたこともわかっています。
実際のオルガンをみると米国風の装飾が施されています。高価なオルガンを遠友夜学校が複数購入することは考えにくいことからも、このオルガンは、有島が手配して作成し、遠友夜学校で使われていたものだと考えられる、というわけです。内部には修理の後が数多く残り、大切にされてきたことがわかる、と深澤さんは言います。
よみがえる音色
オルガンが有島記念館に移った後、深澤さんは遠友夜学校校歌の楽譜も入手し、演奏をしました。現在、展示されているオルガンを来場者は演奏することはできません。しかし、しばしオルガンの前に佇み、校歌を奏でるオルガンの音を想像してみるのも一興です。夜学校の生徒には子どもから大人までいました。その歌声には様々な声が重なっていたことでしょう。
沢なすこの世の楽しみの
楽しき極みは何なるぞ
北斗支ふる冨を得て
黄金数へん其時か
オー 否 否 否
楽しき極みはなほあらん
有島記念館
開館: 火曜~日曜、9時~17時(入館は16時30分まで)
場所: 048-1531 北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地
ウェブサイト
参考文献・注・取材協力:
- 札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫18 遠友夜学校』1981
- 初代校長は新渡戸稲造、2代代表は妻のメアリー。半澤はメアリーの死後、1938年から1944年の閉校まで校長をつとめた。半澤は1921年から代表を務めていたため、44年までは代表と校長の兼任となった。
- 半澤洵の長男、半澤道郎も北大農学部で教授をつとめ、木材化学の分野で多くの業績を残している。道郎の妻の直子は、北大農学部教授 大島金太郎(1871-1934)の三女。大島も遠友夜学校の第2代代表を1905年から1909年につとめている。
- 深澤正之さん(音楽講師・オルガン研究家)
- 伊藤大介さん(有島記念館 学芸員)
- 北海道大学大学文書館