〈きゃら亭〉は北大百年記念館の一階にある。正門から入り、図書館の小径を降りる。窪地の中で冬枯れた木立に囲まれている煉瓦色の建物が記念館だ。正面から入り、レジの脇でコートを脱いだ。
東直己『探偵はバーにいる』初出1992(早川書房1995, p271)
ススキノを根城に、依頼に応じて探偵もやる便利屋の「俺」が主人公の「探偵シリーズ」。その第1弾が今日紹介する『探偵はバーにいる』です。「俺」は北大文学部哲学科中退であり、相棒の高田は農学部農業経済学科の万年博士課程で、恵迪寮のF棟205に住んでいるという設定です。
ちなみに高田は何を研究しているかというと、フィールドワークによる戦後の農協組織研究や、ナチスの農業政策研究だと「探偵シリーズ」の中でさらりと触れられています。あまり研究ははかどっていなさそうですが・・・
さておき、登場人物の細かい設定、そして鮮やかに脳裏に再生されるキャンパスや札幌の描写が本シリーズの魅力のひとつです。それもそのはず、作者の東直己さんは1956年4月12日に札幌で生まれ、北大文学部哲学科を中退した経歴の持ち主です。この経歴からも「俺」は東さんの分身であることがうかがえ、作中にある「風俗営業法が変わる前」(p7)、「俺も今年で二十八のぢぢいだ」(p11)といった記述をあわせると、物語の時代は1984年の晩秋だと思われます。
そのきゃら亭で、「俺」は学生時代の知り合いで、今は文学部仏文講師となった西田と落ち合います。そして西田からの依頼を聞き終えた後、「俺」はチーズがかかったナポリタン・スパゲッティを食べます。そのチーズは長話の間に冷えて固まってしまっていました。
作中の1984年当時、百年記念館にはきゃら亭が入っていましたが、その後2014年にニコラスハウスになり、2017年からは北大マルシェCafé&Laboが入店しています。現在は同じメニューはありませんが、奇しくもチーズを使ったメニューが多くあります。
今回の「物語の中の北大」は、時の流れを感じさせる一節を引用して終えましょう。
昔はよくここに来た。講義に出ないで酒を呑んだ。夏の暑い午後、冷たい白ワインを呑みながら時間を眺めるのは素敵だった。
だが別に、思い出にひたる筋合いのものではない。裸の林が夕日に沈んで行く。俺は着実なペースでストレート・グラスを替えた。
東直己『探偵はバーにいる』(早川書房1995, p272)