見渡す限りの真っ白い雪原を雪上車でひた走る。北極の海も凍りつくマイナス20度の世界で探すのは、北極生態系の頂点に君臨する生物、ホッキョクグマだ。これは、ちゃんこい博士見習いである私が、陸上最大の肉食動物に挑まんとする奮闘記である。
※ “ちゃんこい”は北海道弁で“小さい”の意味
【神保美渚・獣医学院博士1年】
(オレンジ色に染まる白銀の世界)
今よりも もっとちいさかったころ
身長148cmという今でさえ小さい私が、まだ豆粒ほどの大きさだった16年前。何気なくみていたケーブルテレビで、ライオンの研究者が特集されていました。アフリカの大地をランドクルーザーでかけ巡り、謎に包まれたライオンの生態を解き明かさんと奮闘する研究者たち。その姿に、なぜだかとてつもない憧れを抱いた私は、仕事帰りの母にさっそく宣言しました。
「おかん!わたし、アフリカでライオン追いかける人になるわ!」
幼かった私には、彼らが“研究者”という職業であることまでは理解できていなかったのです。突然、娘から放たれた過激な発言に対し、「そうか、がんばりな」の一言で許した母の肝っ玉には感服せざるを得ません。なにはともあれ、その日から、野生動物研究者になることが私の夢になりました。
衝撃の事実
ホッキョクグマに恋をしたのは中学生のときです。愛らしい顔をしたホッキョクグマが、血にまみれながらアザラシをむさぼり喰う姿に、心を鷲づかみにされました。いわゆる、ギャップ萌えでした。
海氷のうえで生活するホッキョクグマは、「海のクマ」という意味の学名がついています。海にすむ哺乳類を扱う研究室なら、ホッキョクグマの研究もできるのではないか。そう考え、北海道大学水産学部の門を叩きました。しかし、そんな私に先生は困った顔で告げたのです。
「日本でホッキョクグマの研究するのは無理じゃない?」
なんということでしょう!日本にホッキョクグマの研究者はおらず、学生ごときがいくらやりたいと豪語したところで、どうにかなるお話ではなかったのです。それまで、おおよそ挫折というものを経験したことのなかった私は大いに落ち込みました。もうガッコウなんか行かん!と、遅すぎて微笑ましさのカケラもない反抗期をむかえたのです。
運命の出会い
とは言え、いつまでも反抗期でいるわけにもいかず、アザラシを対象に研究をはじめました。それでも、心のどこかでホッキョクグマのことが諦めきれないまま過ごしていた修士1年の夏、転機が訪れます。北大も参加する北極域研究プロジェクト(ArCS)で、ホッキョクグマの研究に着手しようとしている、との情報が入ったのです。私もその研究に参加させてほしい!早速、プロジェクトを担当している文学研究科の立澤史郎先生に問い合わせました。
詳しく話をきいてみると、ホッキョクグマの研究については計画段階で、現地調査ができるかどうかも未定という状況でした。つまり、学生が自身の卒業を賭けて取り組むには、あまりにリスクが高い状況だったのです。人生というのは、なかなか都合よくはいきません。しかし、一度つかみかけたこのチャンス、易々と逃してなるものか。母譲りの肝っ玉を遺憾なく発揮した私は「とりあえず、いってみます!」と宣言し、ついに北極海への切符を手に入れたのでした。
いざ、北極海を三百里
2017年3月。若手研究者の海外派遣プロジェクトで渡航費を得た私は、考えうるすべての防寒装備をスーツケースに詰め込み、日本を飛び立ちました。向かった先は、ロシア北東部サハ共和国の北端に位置する町、ティクシ。ティクシは、ラプテフ海という北極海の一部に面する小さな町です。
調査チームはロシア人3名に私を加えた4人。全員、ホッキョクグマ調査は初めてです。一週間分の食料と寝袋を雪上車に積み込み、いよいよラプテフ海にくり出しました。
(海氷がぶつかりあって出来た山の上でポーズする私。防寒装備で数倍に膨れ上がり「スモウガール」の異名を獲得した)
はじめてみる北極は想像を絶するほど美しい世界でした。地平線の先まで広がる雪原は、晴れた日には目をあけているのも大変なほどキラキラと輝きます。海氷のうえからは、深いコバルトブルーの海が透けて見えました。気温はマイナス20度。風が吹くともっと寒くなるので、2~3時間ごとに休憩を取りながら進みます。紅茶が大好きなロシア人らしく、ポットで持参していた紅茶を分けてくれました。凍った海のうえで、砂糖が多めに入ったあたたかい紅茶と手作りのピロシキを食べる…とてつもなく贅沢な時間です。
調査は合計5日間、約1,200kmの距離を探索しました。調査地周辺の村でホッキョクグマの目撃情報をきいたり、先住民の方々の暮らしのようすも伺いました。そして、親子のホッキョクグマらしい足跡の先で、糞を採取することもできました。初回の調査としてはまずまずの成果ですが、残念ながらホッキョクグマには会えず…。なんとか採取したうんちだけを宝物のように抱えて帰路についたのでした。
(ホッキョクグマは一度に約1kgの糞を排泄する。ヒトのうんち(約200〜300g)と比べてみても、相当立派なうんちだ)
嗚呼、愛しのホッキョクグマよ
海氷を利用して生活するホッキョクグマは、温暖化の影響を強くうけ、現在絶滅の危機に瀕しています。しかし、温暖化に対する応答は、生息している地域によって異なるようです。ガリガリに痩せてしまったホッキョクグマが観察される地域がある一方で、個体数が増えている地域もあります。このような地域ごとの違いは、環境条件やホッキョクグマの生活スタイルの違いに基づいており、ホッキョクグマが温暖化によって絶滅するリスクを評価するうえで重要な情報となります。
ラプテフ海のホッキョクグマは、これまでほとんど研究されてこなかったため、そもそもどのくらいいるのか、温暖化の影響を受けているのかどうかも分かっていません。それらを明らかにするために、まずはラプテフ海のホッキョクグマがいつ、どこにいて、どのように生活しているのかを知る必要があります。ティクシで採取した糞からは、なかに含まれる餌由来の毛や骨、DNAなどを分析し、ホッキョクグマがなにを食べていたのかを調べる予定です。
ラプテフ海のほかにも、温暖化とホッキョクグマの関係が明らかになっていない地域は多く残されています。研究者が足りていないことも、その理由のひとつでしょう。意外なことに、ホッキョクグマを専門とする研究者は世界的にも多いとはいえず、日本には一人もいないのです。
私はご縁があって、なんとかホッキョクグマ研究のスタートラインにたつことができました。しかしこの研究が続けられるか否か、さっそく正念場を迎えています。野外調査を実施するためには多くの費用が必要ですが、一介の学生が獲得できる研究費は限られているからです。たった一回の野外調査では、十分なサンプルは得られません。三歩進んでは二歩さがり、ときには四歩さがってしまいつつも、次の北極海行きを目指して奔走する毎日です。
(サハ共和国ヤクーツクの動物園で出会った親子のホッキョクグマ)
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この記事は、神保美渚さん(獣医学院博士1年)が、大学院共通授業科目「大学院生のためのセルフプロモーションⅠ」の履修を通して制作した作品です。
神保さんの所属研究室はこちら
獣医学研究科 獣医学専攻
野生動物学教室(坪田敏男 教授)