2020年7月30日の深夜。私は北大のメインストリートを、いつものように淡々と走っていた。だが文系棟にさしかかったその瞬間、度肝を抜かれた。闇の中、左前方からすらりと長い脚をもった大きな動物が走り出てきた。私は躓きそうなところを何とかこらえて顔を上げ、その影を目で追った。それは軽やかな足取りで農学部のほうへ走っていった。正体は、シカだった。
2020年7月ごろから約3か月にわたり、北海道大学の札幌キャンパス内でシカが度々目撃され話題になった。札幌のシカのように人間のそばで生活する野生動物は、往々にして人間活動の影響を受けている。コロナ禍で私たちの生活は大きく変化したが、野生動物の生活は変化しただろうか。文献調査や研究者インタビューを通して、私はこの疑問を解消しようと試みた。
【五藤花・CoSTEP修了生/環境科学院修士1年】
人間活動の停止「アンソロポーズ」
昨年からの新型コロナ流行は人間社会に大きな影響を及ぼしている。対策として海外ではロックダウンとよばれる人々の外出や移動の規制が各地で行われてきた。日本でも外出自粛が呼びかけられ、旅行や出張を控えたり、リモートワークが推進されたりして家の中で過ごす時間が増えた(1,2。こうして、人間の活動の規模が大幅に縮小した(3。
このような人間活動の低下を表す言葉として、昨年6月に「アンソロポーズ(Anthropause)」という言葉が生態学者らによって提唱された(4。Anthroは「人間」を表す接頭辞、Pauseは「停止」を意味する。
そして、アンソロポーズは野生動物の行動にも影響を及ぼしたと考えられている。町を闊歩するヤギの群れ(5、普段は観光客が多く行き交う道路上でくつろいでいるライオン…(6。今までには見られなかった様子がSNSで拡散される事例が世界中で見られた。こういった事例を出発点に、世界ではアンソロポーズと野生動物に関する研究がいま、注目を浴びつつある。
In the town near me (Llandudno) the mountain goats have moved further down out of hills and have started wandering around the town more to graze !! pic.twitter.com/m4dlp9Tydn
— sarah 🕸♡ (@VampireGhuleh) March 30, 2020
(イギリスの町に現れたヤギの群れ)〈@VampireGhuleh〉
Kruger visitors that tourists do not normally see. #SALockdown This lion pride are usually resident on Kempiana Contractual Park, an area Kruger tourists do not see. This afternoon they were lying on the tar road just outside of Orpen Rest Camp.
📸Section Ranger Richard Sowry pic.twitter.com/jFUBAWvmsA— Kruger National Park (@SANParksKNP) April 15, 2020
(南アフリカの国立公園。ライオンが路上でのんびりと昼寝している)〈@SANParksKNP〉
北大のシカ出現はアンソロポーズが原因?
では、昨夏の北大のシカ出現もアンソロポーズによるものなのだろうか。私が知りたいのはそれだ。北海道でも昨年2月28日に初めての独自の緊急事態宣言が発令されてから5月31日まで、感染拡大防止措置のため外出自粛が要請され(7、人の流動が減少した。例えば、札幌駅周辺における2020年の滞在人口をみてみると、5月第1週の道内・市内の移動は前年同期に比べそれぞれ62%・55%減少した。道外から来る人はさらに減少が著しく、99%も減少し、その後も9月まで前年の5割を下回ったままだった(8。
しかし、シカの生態研究をしている立澤史郎さん(文学研究院 助教)によると、北大に現れたシカと人間活動低下の関係は、はっきりしないという。実は2000年代はじめごろから、毎年のように学内でシカの足跡が発見されていたというのだ。
若いオスジカたちは新たな生息地や配偶相手を求めて、初夏から秋の発情期にかけて、もといた場所から離れていく。これまで北大で見つかった足跡も、近くの山から来たオスのものだろうと考えられている。昨年の夏に目撃されたシカも一歳と推定される若いオスだった。
アンソロポーズによってシカが北大に現れる頻度が増したという確かな証拠は今のところない。そもそも長期的かつ系統的な調査データがないのだ。若干肩透かしを食らった私だったが、立澤さんは、アンソロポーズによって野生動物の行動が変化した確かな事例がある、と言う。それは奈良公園のシカだ。
人と関わって生きてきた奈良公園のシカ
奈良公園のシカは野生だが、人間とのかかわりが強い。その歴史は古く、鎌倉時代から神の使いとして大切にされており、さらに江戸時代以降は、人がシカに餌を与えるという関係が構築されてきた(9。
その関係は2010年代末にはさらに強まり、人間への依存度が非常に高い状態になっていた。原因は観光客の増加だ。奈良市へ観光に訪れた人は2009年からの10年間で約300万人も増加し、2019年には1700万人を超えた(10。
大勢の観光客が餌をあげることで、冬の厳しい時期を多くのシカが生き残れるようになった。そして高密度になったシカたちは植物を食べ尽くし、餌不足が起きる。するとシカたちは、さらに観光客に餌をねだるようになる、というループができていた。
観光客の減少によって人間を「見限った」シカ
ところがアンソロポーズによってそのループが切れたことを、立澤さんらの研究グループが明らかにした。その証拠は奈良公園のシカの1日の行動パターンの変化だ。普通、野生のシカは朝、森林から草原に出てきて草を食べ、その後安全な場所で休息し反芻する。そして夕方にはまた草原に出て採食しながら森林に戻る、という生活を送る。一方、以前の奈良のシカは、昼間も観光客に餌をねだって奈良公園の開けた場所、とくに煎餅屋の周囲をうろついていた。また、夜に森林へ帰らない個体が増えていた。
しかし行動自粛が始まった2020年3月ごろから、こうした行動パターンが変化しはじめた。そして7月には奈良公園のシカも野生のシカと同じように、昼間は草地でゆっくり反芻・休息し、夜には森林に戻るようになったという(11。立澤さんは「餌をもらえないのでシカの行動が野生の状態に戻ったのです。野生動物が人間に依存しなくなったとも言えます」と語った。
糞からわかるシカの変化
さらに、観光客の数の変化は奈良公園のシカの健康状態にも影響を及ぼしていることが、明石涼さん(理学部 生物科学科 高分子 4年)の調査から示唆されている。明石さんは2019年から奈良公園のシカの糞をつかった研究を行っていた。調査のきっかけを彼はこう語ってくれた。
「去年の3月に奈良公園でいつも通り調査で糞を集めていました。観光客がものすごく少ないのは火をみるよりも明らかでした。そしてその時から漠然と、シカの振る舞いが変わったなぁとか、下痢状だったりゆるかったりする状態の悪い糞が以前より少ないなぁと感じていました。でも奈良公園のシカが快腸になったというニュース(12を6月に見て、もやもやしていたものが言葉になりました。まだ糞の良い状態が続いているのか? だったら、調査を継続して確実な変化か注視しなければならない。それに腸内の環境も変化しているんじゃないか? そう思いました」
そこで明石さんは、アンソロポーズ前、つまり2019年末までに採取した糞と、アンソロポーズ後の2020年3月以降の糞について、その状態と中に含まれる細菌を比較した。するとアンソロポーズ前では、塊の状態や下痢の状態になっている糞が4割以上を占めた。シカの健康的な糞である「黒豆」とよばれるころころとした糞は6割に満たなかった。一方でアンソロポーズ後では、「黒豆」の割合は増加し8割になった。また、食生活や健康状態と密接にかかわっている腸内細菌の種の構成にも変化があった。
今後、明石さんは季節性や雌雄を考慮した解析に取り組む予定だ。それらの解析によって、シカの糞の変化はアンソロポーズの影響を反映しているのか、それともほかの要因の影響を強く受けているのか、よりはっきりしてくるだろう。いずれにせよ、継続的なデータ収集と、日々の観察での気づきがこのようなアンソロポーズ研究を可能にしたのは間違いない。
野生動物の行動も人間の意識も変化
奈良公園の事例は、アンソロポーズによって起こる野生動物の行動の変化には、人間社会との接触の増加だけではなく、減少もあることを示している。
しかし野生動物の行動変化の他に、もう一つ別の変化もあるかもしれない、と私は思った。それは私たち人間の意識の変化だ。北大のシカの例にあるとおり、これまでもシカは北大構内に出現していた。もしかしたら、アンソロポーズで私たち自身の行動が変化したことで、今まで単に見逃していたシカに対して、目を向けやすくなったのかもしれない。アンソロポーズによる変化には、野生動物の行動の変化と、私たち人間の視点の変化が混ざり合っているのだ。
アンソロポーズによって人間の移動レベルは数十年前と同等になったともいわれている(4。この状況は経済面への打撃を見れば危機的ではあるが、ある面では好機と捉えることもできるのではないだろうか。今回、人間の行動と野生動物の行動、そして人間の視点が変わることによって、奇しくも人間と野生動物が与え合う影響に焦点があてられることになった。実は野生動物は、私たちにとって隣人だ。未だ途上ではあるが、アンソロポーズ研究は人間活動が野生動物に与えてきた影響についての重要な知見をもたらしてくれるだろう。
そしてそこから、私たち人間と野生動物との共存を可能にする社会の在り方が見えてくるはずだ。アンソロポーズ研究は研究者によるものだけではない。SNSで拡散された多くの事例がそれを示している。共存を可能にする未来のタネは、一人一人の気づきにあるに違いない。そしてそれは、やがて私たちの生活に花を添えてくれるだろう。
気づいたら、色づいていた世界
シカと出会った夜から10ヶ月あまり。コロナは収束することなく、そしてまた私は深夜のランニングを楽しんでいる。いつも通り文系棟を通り過ぎ、中央ローンがあるメインストリートの折り返し地点に来た。
と、視界の端で何かが動いた。だが今回はシカではない、鳥、オシドリだ。彼らは渡り鳥で、春になると札幌にやってくる。彼らの到来に、季節を感じる。
そういえば、最近鳥のさえずりをよく聞くようになった。昼間通りがかった水たまりには黒くうごめくオタマジャクシたちもいた。生命で満ち溢れたキャンパスには不思議な力がある。生き物の存在に気づく度、まるで妖精の国に連れ去られるかのように、私の意識はその世界に吸い込まれ、溶け込んでゆく。
札幌キャンパスの自然は、テレビに流れる熱帯雨林の宝庫の如き多様性や、写真集に載っている極地の荘厳な光景に比べると、ちっぽけなものだろう。それでも、確かにこの傍らにある自然は、私が気づきさえすれば私を魔法にかけてくれる。そして、私の世界をちょっとだけ色づけてくれる気がする。
参考文献・取材協力:
- 日本経済団体連合会2000: 「緊急事態宣言の発令に伴う新型コロナウイルス感染症拡大防止策各社の対応に関するフォローアップ調査」 (2021年4月19日 閲覧).
- 総務省2018: 「情報通信白書平成30年度版 広がるテレワーク利用」 (2021年4月19日 閲覧).
- UNWTO 2021: 「TOURIST ARRIVALS DOWN 87% IN JANUARY 2021 AS UNWTO CALLS FOR STRONGER COORDINATION TO RESTART TOURISM」 (2021年4月19日 閲覧).
- Rutz, C., Loretto, MC., Bates, A. E., Davidson, S. C., Duarte, C. M., Jetz, W., Johnson, M., Kato, A., Kays, R., Mueller, T., Primack, R. B., Ropert-Coudert, Y., Tucker, M. A., Wikelski, M., and Cagnacci, F. 2020: “COVID-19 lockdown allows researchers to quantify the effects of human activity on wildlife”. Nature Ecology & Evolution, 4, 1156–1159.
- sarah 🕸♡ 2020: 「In the town near me (Llandudno) the mountain goats have moved further down out of hills and have started wandering around the town more to graze !!」 『Twitter』 2020年3月31日,(2021年4月19日 閲覧).
- Kruger National Park 2020:「Kruger visitors that tourists do not normally see. #SALockdown This lion pride are usually resident on Kempiana Contractual Park, an area Kruger tourists do not see. This afternoon they were lying on the tar road just outside of Orpen Rest Camp. 📸Section Ranger Richard Sowry」『Twitter』 2020年4月16日, (2021年4月19日 閲覧).
- 札幌市2020:「市民の皆さまへ 秋元札幌市長からのメッセージ(令和2年5月26日)新型コロナウイルス感染症について」 (2021年4月19日 閲覧).
- 内閣府 2020: 「V-RESAS 北海道」, (2021年4月19日 閲覧).
- 奈良県 2019:「天然記念物「奈良のシカ」保護計画 暫定計画」 (2020年4月13日 閲覧).
- 奈良県 2020: 「【市長会見】2019年奈良市観光入込客数(令和2年7月14日発表)」(2020年4月13日 閲覧).
- FNNプライムオンライン編集部2020:「観光客減少で奈良公園のシカが“野生化”…これはいい影響?専門家に聞いた」 (2020年4月13日 閲覧).
- 朝日新聞デジタル 2020:「奈良のシカ、観光客減で快腸 ゆるかったふん「黒豆」に」(2020年5月6日 閲覧).
- 立澤史郎さん 北海道大学 大学院文学研究院 人間科学部門 地域科学分野 助教
- 明石涼さん 北海道大学 理学部 生物科学科 高分子機能学 中岡研究室 / 早川研究室 4年