中央食堂真向かいに位置する、何やら気になる白い建物。それは北海道大学埋蔵文化財調査室。札幌キャンパスには多くの遺跡があると分かりはじめた頃、1980年に設置されました。以来、キャンパス内の遺跡の調査を続けています。北大内に残された遺跡やその発掘・調査活動について、調査員の高倉純さん(埋蔵文化財調査室・調査員/助教)にお話をうかがいました。
【神田あかり・CoSTEP本科生/理学院修士1年】
埋蔵文化財調査室の活動について教えてください
札幌キャンパスと北大植物園から出土した埋蔵文化財を、調査、研究、保管、展示しています。キャンパス内で工事のため地面を掘るときは、必ず事前に埋蔵文化財の調査をするように、と決められています。北大では毎年どこかで工事があり、そのたびに調査で埋蔵品が出土するので、収蔵品は増え続けています。収蔵している遺物は、縄文文化の土器から戦後のガラス瓶まで、合わせて約16万点。その半分以上が土器です。
(展示品は収蔵品のほんの一部。もちろんすべて北大構内から出土したものです)
「北大式土器」という名前の土器があるとか
土器は模様や形によって分類されています。「北大式土器」は、そのタイプの基準となる土器が北大構内で発見されたため、そう名付けられました。5~7世紀に作られていた土器で、器の上の縁に近い部分に、木の棒で外側から押し開けた穴が並んでいます。大学の名前がついている土器は他には無いと思いますよ。
(北大式土器。これはポプラ並木の東側から出土したもの)
北大式土器が使われていた頃、人々はどのような暮らしをしていたのでしょうか
北大式土器の作られていた5~7世紀、北海道では基本的に、狩猟採集の生活が続いていました。本州の古墳~飛鳥時代にあたる時代ですが、稲作が伝わらなかった北海道では違う文化が育っていたのです。そのため北海道独自の時代区分が採用されており、5~7世紀は続縄文文化の後半の時期になります。
次の擦文文化(擦文文化)の頃には、北大周囲には何本もの小さな川が流れていて、50~100人規模の村がいくつもあったようです。サケ漁を営んでいたらしく、川の跡からは魚を追い込むための木製の罠が出土しています。また、ヒエやムギなどの穀物も利用していました。この穀物を育てる文化は、本州との交易で得たものです。川が海へ出るための通路にもなり、人々は船で本州などの地域とも行き来していたと考えられています。周囲との交易によって生活はどんどん変化していったのです。
(札幌キャンパスの航空写真に当時の様子を書き込んだ地図。川(青色)の周りに集落(オレンジ色)が点在しています)
土器の他には、どのようなものが出土していますか
この辺りの地質は火山灰由来で酸性なので、骨などの有機物は分解されてしまいます。ですから、分解されない土器や石器がどうしても多くなりますね。動物の毛皮をなめすための石器や、副葬品と思われるアクセサリーが見つかっています。
ただ、かまどの跡からは魚の骨や炭化した穀物などが出土します。これは、かまどの灰のアルカリが土壌を中和するためです。実際の発掘では、土ごと持ち帰ってふるいにかけ、これらの細かい遺物を見つけ出します。これらも、当時の食生活を知る貴重な資料です。
(炭化したオオムギ)
(魚の骨のかけら。砂粒大の骨から魚の種類や部位まで特定できることも)
北大の地下には本当に様々なものが眠っているんですね
埋蔵文化財は、埋まったままでは目に見えないのですが、いたる所に残っています。私たちは昔の人々の暮らしたその上に暮らしているんですね。先人の足跡を感じ、学んでもらうためにも、遺跡をそのまま残しておければよいのですが・・・。そもそも調査は建物を建てるためにおこなっていますから、最終的に遺物だけを取り出し、遺跡は埋め戻してしまいます。
一度堀ってしまった遺跡を再現することはできませんから、できる限りの情報を残します。後の世代の人も、そこにあったのはどのような遺跡だったのかを、知ることができるようにするためです。遺物のサイズや重さ、模様、材質、遺跡から発見されたときの状態など、すべてを細かく記録し、公開しています。
(調査のたびに作成する報告書。膨大なデータが収められています)
ひとの日常生活は当たり前すぎて文書に残らず、実際に使われていたものを掘り出すことで、初めて分かることが多いのです。見つかったものを通して、知られていなかった過去が明らかになるのが、埋蔵文化財調査・研究の面白いところですね。
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後編では、いままさに北大構内で行われている発掘の現場にお邪魔します!