祭礼が終って間もないある日、次郎は壮太を農学校へ連れていった。渡瀬という先輩にひきあわせるためであった。(中略)
彼は演武場の一階の博物室で、気さくに会ってくれた。彼は壮太の差し出した箱の蓋をとるなり、
「ほう、稀らしいものを見つけたね」
と、なかの虫をつまみあげて眼を細めた。
「だが、これは青玉虫じゃないよ。よく似てはいるがね」
こっちへ来たまえ、と渡瀬は二人を陳列棚の隅へ連れていって、抽出しから小型のガラスケースをとり出した。
(中略)しばらくして、ようやくエゾアオタマムシのケースから顔をあげると、こん度は、壮太は部屋に飾られてある鳥やけものや昆虫類の標本に心をうばわれてしまった。
それらは歴代の学生たちが、教授の指導で集めたものであったが、その多くは、附属牧羊場のなかにある博物館におさめられていて、演武場の博物室にあるのはごく一部であった。それでも、壮太を夢中にさせるに充分であった。
船山馨『石狩平野』(河出書房1967, pp154-156)
生き物好きの杉壮太は北海道にいないと思われていたアオタマムシを採集し、友人で農学校の学生である伊住次郎のはからいで、動物学者の渡瀬正二郎を訪ねます。札幌農学校演武場に収められた数々の生物標本と渡瀬の言葉は、生き物好きな壮太を夢中にさせます。時に1885年。ここに在野の研究者が誕生したのです。
この一節だけを読むと、今回「物語の中の北大」で紹介する『石狩平野』は、北海道の自然の中で生き物を追い続ける壮太の物語なのかと思わせてしまうかもしれませんが、そうではありません。
主人公は貧しい入植者の娘で、後に壮太と結婚する高岡鶴代です。物語はその彼女の12歳から76歳、時代にして1881年(明治14年)から1945年(昭和20年)までの64年間を描きます。鶴代・次郎・壮太の代から、鶴代の子である明子・壮太郎、さらに雪子・直記・小鶴、そして和子・真人と血脈は続きます。登場人物たちは、厳しい自然の中での開拓、度重なる大災害や戦争、そして人々の思惑に翻弄されながらもそれぞれの人生を生き抜きます。杉壮太の生き物好きは、この大きな物語を構成する縦糸の1本です。
壮太はこのエゾアオタマムシの一件の後、特にサンショウウオに取り付かれ、一生を賭けることになります。度々調査で家を留守にして妻の鶴代に苦労をかけながら、ついに1914年に釧路の平戸前でそれまで北海道には生息していないと思われていたキタサンショウウオを3匹発見します。そして「もういち度めぐり会いたい、どうしても会いたい。それだけのことなんだよ」との一念で、1921年秋に弟子屈で2匹を再発見します。
これに対して北海道帝国大学の生物学教授、須賀博士は、発見されたのはエゾサンショウウオではなく、キタサンショウウオだと認めるも、自然に現地で繁殖しているものではなく、たまたま人為的に導入されたものに過ぎないと主張します。壮太は反論のために道東へ調査に行きますが、再発見することはできず、体をひどく壊してしまいます。
そこで壮太からの資料を託された鶴代は、1923年9月1日に東京で引退していた渡瀬に会います。壮太と鶴代の熱意に押され、翌年に渡瀬は弟子である東京帝大の伊佐講師を連れて来札し病床の壮太に面会。そして須賀博士も同行して釧路へ調査に行きますが、残念ながらそのしばらく後、壮太は死去します。
それから約10年後、1933年のある日、鶴代は新聞にのった小さな記事を見つけます。そこには「キタサンショウウオ本道生息確認さる 北大犬塚博士の苦心実る」とありました。この記事を読んだ鶴代の感慨の描写は、学術研究というもの、そしてこの物語のメッセージを表しているでしょう。
「渡瀬正二郎が死んだとき、鶴代は深い絶望で打ちのめされた思いであった。もうこれで、壮太の発見に関心を持ち、それを証明しようと試みる人もないだろうと思った。だが、そうではなかった。やはり証しびとはどこかにいたのである。」
さて、『石狩平野』で描かれるエゾアオタマムシやキタサンショウウオの話は、フィクションですがモデルがあります。「渡瀬正二郎」は札幌農学校出身の動物学者、渡瀬庄三郎(1862-1929)を参考にしていると思われます。エゾアオタマムシは渡瀬が1881年に発見したことになっていますが、実際はSemenowが1895年に記載論文を発表しています。キタサンショウウオも同様で、発見場所は同じく平戸前ですが、1954年に地元の小学生が初めて発見しているのが実際です。ちなみに「須賀博士」は須田金之助(1869-?)、「犬塚博士」は犬飼哲夫(1897-1989)から名前を拝借していると思われます。
本作には伊住次郎の他にも、加地康男、伊住夏樹、笠間隆治、石畑達四郎が札幌農学校の学生として主要な役割を果たします。彼ら架空の人物だけではなく、実在の北大関係者も登場します(下記一覧)。北海道の歴史を描く以上、大きな役割を果たした北大が出てくるのは必然ではありますが、理由はそれだけではありません。作者である船山馨(1914-1981)の出自も関係しています。船山の母は下宿屋の娘で、そこに間借りしていた札幌農学校の学生との子が船山なのです。
『石狩平野』は、明治からの北海道の歴史にどのように「北大」が関ってきたのか、イメージを持ちたい方にはお勧めしたい一冊です。
『石狩平野』に登場する実在の札幌農学校/東北帝国大学農科大学/北海道帝国大学の人物(登場順。括弧内は生没年/登場の立場)
- 調所広丈(1840-1911/初代校長・開拓使官有物払下げ事件)
- 大田(新渡戸)稲造(1862-1933/2期生・刑余者保護会)
- 足立元太郎(1859-1912/2期生)
- 内村鑑三(1861-1930/2期生・日露戦争反戦運動)
- 宮部金吾(1860-1951/2期生)
- 広井勇(1862-1928/2期生・小樽築港事務所長)
- 森源三(1836-1910/第2代校長)
- ウィリアムSクラーク(1826-1886/初代教頭・米国で死去し追悼式)
- 有島武郎(1878-1923/英語講師・黒百合会・社会主義の研究会)
2024年7月19日追記
記事を読んだ照井滋晴さん(北海道爬虫両生類研究会)から、「須賀博士」は北海道大学出身で帯広畜産大学の芳賀良一(1927-1987)ではないかとの情報提供を頂きました。芳賀は犬飼の門下にあたり、1960年に上士幌町でキタサンショウウオを発見しています。