英語でライラック、フランス語でリラ、和名はムラサキハシドイ… 名前はいろいろですが、5月から6月にうつろうこの季節を象徴的に描くとしたら、画題はこの花をおいて他にないでしょう。札幌キャンパスのそこかしこでも、リラと出会うことができます。総合博物館、旧理学部南側にあるエルムの森、またの名を理学部ローンでも、ライラックが花を咲かせています。その木陰で、ほの甘い香りをひとり楽しんでいると…
「この場所のライラックにはちょっとしたエピソードがあるんですよ」とふいに声をかけられました。そこにいたのは初老の紳士。いつぞやの過山博士です。
「どうも…お久しぶりです。ライラックの話…そう、理学部の人たちの日常がちょっとわかる話です。時代は太平洋戦争末期から終戦直後です。私もそれほど詳しく調べたわけではありませんが…まぁ興味ないですかね…」
すたすたと立ち去ろうとする過山博士をあわてて呼び止め、もちろん私は話を聞くことにしました。
エッセイスト内田亨
「内田亨、をご存じですかね? …ご存知ない。ウチダザリガニは? …ご存知ない。そうですか… ま、内田亨という動物学者が北大にいました。理学部が立ちあげられたのは1930年ですが、内田は1931年に着任しました。北大の動物学科・系統分類学講座のいわゆる開祖です。
で、彼はエッセイストでもあるんです。動物や自然に関したエッセイが何本もあります。この本1)は第1回エッセイスト・クラブ賞を受賞してます」
過山博士が見せてくれたのは一冊の古い本。
表紙には『随筆 きつつきの路 内田亨著』とありました。奥付を見ると発行は1952年。昭和27年です。
エッセイ「リラの花」
なんとなしにぱらぱらとページをめくっていると、過山博士は一言。
「165ページを」
あわててそのページを開くと、そこには「リラの花」と題した短いエッセイがありました。
戦争の終わり近くまで理学部にいた人なら、みな知っているであろう。その南側に五本ほどの立派なムラサキハシドイの木が並んでいたことを。この数本のムラサキハシドイは、理学部が出来た時に植えられたのであるが、南側の明るい太陽を受けて年ごとに大きくなり茂っていった。いつも六月の初めになると、紫の花をたくさんつけ、そのあたりにはよい香をただよわせていた。
はっと本から顔を上げると、そこにはムラサキハシドイ、ライラックの花がそよ風にゆらいでいます。
「そうです。今もここにライラックが6本ありますね。まぁ当時のライラックがそのままなのかは…はっきりしませんがね。先を読んでみてください。面白いのはそこからです」
ジャガイモかリラか
沖縄戦が終わった頃、五月のある日、理学部の裏口の方へ向ってゆくと、今を盛りとつぼみをもったムラサキハシドイが、みな根本近くから切られてしまって、今はなくなった常夫のナベさんが、太い所で薪をつくっている。(中略)聞いてみると、この辺は数学教室の人々の畑となっていたが、畑にかげをつくるので切ってくれとの要求があったので、部長の命令で切ったとのことであった。一たいこれらの木のためにどれだけの収穫がへるのであろうか、たかだかバケツ二三杯のジャガイモにすぎないのではないか。(中略)六月になってミヤマカラスアゲハがたずねてきて「宿は」と聞いたら何と答えたらよいだろう。
「…おやおや急に興味をもったようですね。当時の理学部長ですか? 坂村徹という植物学科の教授です。え? 切れと言いだした数学の教員? まぁ落ち着いて。…犯人探しはいかがなものか… 当時は4研究室があって、教授・助教授・助手あわせて12名。教授は吉田洋一、河口商次、功力金次郎、守屋美賀雄の4名です。
まぁ数学の先生や学生の立場にしてみれば、一概に非難するものでもありませんよ。畑はライラックと理学部の建物の間にあったそうです2)。確かに影になりますからねぇ」
理学部ローンを見回すと、今は静かな憩いの場です。しかし、戦時中には畑だけではなく、防空壕もあったと過山博士は教えてくれました。日々の食糧や命の危険を案ずる中では、やむをえないことだったのかもしれません。
理学部のひとびと
でも、なぜ内田と数学者たち、理学部長に、一声かける関係性がなかったのでしょうか。エッセイの中でも内田はそれについてこぼしています。
「そうですね…憶測の域を出ませんが、研究室の場所が一つの原因…かもしれません。理学部の建物はコの字型になっています。え?? コですよ。子どもの子じゃないです。カタカナのコです。あなた、面白いこと言いますねぇ、そんな形の建物が… いや、ええとなんでしたっけ…そう、そのコの字の底辺、つまり南側には動物学科・植物学科・地質学鉱物学科の研究室がありました。内田はS210室です。当時理学部長だった坂村も南側です。北側には物理学科と化学科がありました。で、数学はコの字の北側の角にあったそうです3)」
「理学部に六つあった学科の関係について、当時の化学科の方が書き残しています。物理学科と化学科は隣合わせでよく交流していたが、理学部南半分とはどうしても疎遠になりやすい。動物学科の内田亨先生に実際に会ったのは、学部開設から10年たってからだった、と4)。
動物と数学もあまり交流がなかったのかもしれません。物理的位置、居場所は案外いろんな影響を与えるものですから。でも、もちろん他にも原因はあるでしょう。内田は、同じく随筆家だった物理の中谷宇吉郎とはウマがあって、一緒に遊んでいたそうですから5)。居室は遠くてもね」
今は総合博物館となった理学部本館で、研究者たちが研究と生活に明け暮れている姿が見えた気がしました。それにしてもその後、ライラックはどうなったのでしょうか。内田のエッセイによると、その後2本は枯れたが3本は残り、うち1本は5年後に花をつけたとあります。そして今ある6本を見ると、3本には切られた痕があるのです。
もう一つだけ、過山博士に質問するために振りかえろうとした瞬間、ライラックの香りとともに風が吹き抜けました。そして振り返った時には、もう誰もいませんでした。
今、私が見ているこの木と、内田が愛した木は同じか、それとも… でも、ライラックを愛ずる心は同じにようにありたい。私は最後の一節を読み、過山博士が置いていった本を閉じました。
自分は今でもそう思っている。食物が乏しい時がきても、花の美しさ、やさしさをめづる心を失いたくないと。
【川本思心・CoSTEP/理学研究院 准教授】
参考文献・取材協力:
- 内田亨『きつつきの路』東和社(1952)pp165-168
- 北海道大学125年史編集室『写真集北大125年』(2002)pp38-40
- 北大理学部50年史編纂委員会『北大理学部五十年史』(1980)p296 および泉屋周一さん(理学研究院 数学部門 特任教授)による証言
- 上記文献3,p90
- 杉山滋郎『北の科学者群像―「理学モノグラフ」1947-1950』北海道大学図書刊行会(2005)p72
- 竹田定好さん(理学部同窓会 事務局長)