知ってました? 北海道大学の札幌キャンパスを蒸気機関車が走っていたこと。
写真がその証拠です。工学部の西に広がる農場を左手に見ながら、北に向かって線路が延びています。その先には、蒸気機関車の吐く黒い煙がたなびいています。
昔の北大の地図を見ると、ちゃんと鉄道線路が書き込まれています。現在のキャンパス地図にそれを書き写してみると、だいたいこんな感じです。
農学部や理学部8号館の西を通り、ポプラ並木を左手に見ながら真っ直ぐ北上し、工学部の北のほうで東にカーブして、国際本部の北のあたりで終わります。反対側は、キャンパスの南端で大きくカーブして桑園駅につながっています。
でも、この線路(約1.5キロメートル)を機関車が走るのは、秋と冬だけでした。なぜって、この線路は暖房用の石炭を運ぶための引き込み線だったからです。
戦前はもちろん、戦後もしばらく、暖房の燃料は石炭でした。そして桑園駅から北大まで、馬車で石炭を運んでいました。それを1952年3月から、この鉄道での輸送に切り替えたのです。総工費の約937万円(当時)にくわえ、運行経費も、全部 北大が負担しました。それでも、コスト的にみあったのです。
この鉄道は、1964年3月に運行を終えました。東京オリンピックが開催される半年ほど前のことです。日本全体が「石油の時代」へと移り、北大でも暖房用の燃料がしだいに重油に切り替えられていったのです。
ちなみに、終戦後しばらくは、暖房用の石炭が足りなくて冬休みが3カ月、なんてこともありました。でも、「長い冬休みでいいな!」というわけにはいきませんでした。
学生は炭鉱に仕事に出かけ、その見返りとして石炭を配給してもらったのです。たとえば1946(昭和21)年の秋、工学部の学生は3カ月にわたって三井鉱山美唄炭鉱に出かけ、約1480トンを搬出。そのうち1250トンを工学部に収め、残り230トンを自分たちが受け取りました。
たいへんな冬休みだったのですね。
(最初の写真とほぼ同じ場所の、現在のようす。左の建物は 生物生産研究農場アグリフードセンター、右手奥に見える高い建物は大学院 情報科学研究科の棟。)
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この記事に掲載した最初の写真は、藤巻裕蔵氏(帯広畜産大学・名誉教授)が撮影したものです。北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園の許諾を得て掲載しています。また、この記事をまとめるにあたっては、三上淳史氏による「ポプラ並木の脇を走った蒸気機関車」(『北大の125年』p.78)と『北海道大学百年史 通説』を参考にしました。