恵麻はH大学構内の細道にいる。正門から事務局の前を通り過ぎると右手に現れるその細道は、百年記念会館という建物や、地球環境科学研究科などを経由し、薬用植物園まで行くつくらしいのだが、次年度は四年生になる恵麻も、そこまで歩いたことはない。興味もないし、用も無かったからだ。
細道を歩くのはごくまれで、事務局の裏手にある学生部庁舎に立ち寄るとき以外になかった。
恵麻はその学生部庁舎を眺めた。経年劣化も甚だしい、二階建ての建物。モルタル外壁に走るひび割れは、訪れるたびに数が増えている気がする。色合いも汚れのせいか微妙だ。グレーと生成りを適当に混ぜた上に、初冬の弱々しい落陽を浴びたかのような、非常に微かな朱の要素も潜んでいる。
少なくとも恵麻の目にはそう映った。
恵麻は三段の階段を上り、入り口の扉の黒い押板に手をかけた。
乾ルカ『わたしの忘れ物』初出2016-2017(創元社2018,p11-12)
湿った雪が降るのか、それとも晴れるのかはっきりしない三月半ばの朝、中辻恵麻は学生部庁舎を訪れます。そして不思議な雰囲気をもった女性職員の「ユウキ」さんにアルバイトを紹介されます。そのアルバイトの内容は、地下鉄東西線の東の終着駅の複合施設〈トゥッティ〉の忘れ物センターの事務補助。「あなたは行くべきよ。断らないでね」という静かで強引な言葉に押され、恵麻はバイト先でさまざまな「忘れ物」に出会います。
第13回の「物語の中の北大」で紹介するのは、忘れ物をめぐるミステリ『わたしの忘れ物』です。捜しても見つからない忘れ物、不思議な忘れ物、持ち主とは思えない引き取り人… 六つのエピソードが連なり、ラストにはぐずついていた空が晴れ渡るように、全編を貫く「わたしの忘れ物」の謎がとけて行きます。
物語で正確に描写されている学生部庁舎の現在の正式名称は事務局3号棟です。かつて実際にアルバイトの紹介がされていました。実は第12回で紹介した『夜の果てまで』でも家庭教師を紹介する「学務部棟」としてせりふの中で登場します。学生生活にとってアルバイトはなくてはならないもの。学生部庁舎の扉は、大学とは異なる世界につながる扉なのかもしれません。
作者の乾さんには、本作のほかにも同じく学生部庁舎やユウキさん、そしてバイトをする北大生たちが登場する短編集『メグル』や、大正時代の異能の北大生が登場する『ミツハの一族』があります。なぜ乾さんはこんなにも北大を舞台にするのか・・・ それはまた別の乾さんの作品を紹介するときにお伝えできればと思います。