植物園事務所の右手には樹齢八十年余のライラックの老木がある。八十年余というのは明治二十五、六年ごろに、すでに大きな株のままソリに乗せて運び込まれたからである。詳しい樹齢は誰も知らなかった。高さ五メートルを越し、こんもりと枝が繁っているので花どき以外はライラックと気付かぬ人が多かった。
この木の蕾が下から開き始めるのを見ると、有津は初夏がきたと思う。それまでの桜と梅の季節は彼にとっては春であった。
その蕾が開いた日、有津は志賀と植物園の芝生を横切って薬草園の方へ歩いていた。土曜日の午後で閉園時間の五時が近づいていたが、斜陽の当たる芝生にはまだかなりの人が残っていた。
渡辺淳一『リラ冷えの街』初出1970-1971(文藝春秋1980, p31)
北大植物園に入って右へ70mほど進むと、1901年竣工の宮部金吾記念館があり、その傍らに、上記で引用した描写の通りライラックが植えられています。ライラックは日本名ではムラサキハシドイ、フランス名ではリラと呼ばれます。「リラ冷え」とは、北海道でこの花が咲く5月中旬頃から6月中旬頃にかけて、気温が一時的に下がることをさす言葉で、今回の「物語の中の北大」で紹介する『リラ冷えの街』により広く使われるようになったと言われています。
リラ冷えの街=札幌を舞台とする本作ですが、物語の中心となる舞台は北大植物園であり、主人公は植物園に勤める北大農学部の助教授、有津京介です1)。彼は大学院生だった24歳の時にサッカー部の先輩で北大病院婦人科の医師、露崎政明に半ば強引に誘われて、部員の竹岡、吉村と三人で人工授精のための精子を提供します。本来提供先は秘密にされますが、有津は露崎を拝み倒して相手の女性の名前を教えてもらいます。そして10年後、彼は偶然その女性、宗宮佐衣子と息子の紀彦と出会うことで、物語が動き出します。
作者の渡辺淳一さん(1933-2014)は北大に入学したのち札幌医科大学に進み、医師として勤めながら、作家として多くの作品を世に送り出しました。医療に関係する作品も多く、本作も人工授精が物語の発端として織り込まれています。露崎が佐衣子に施した人工授精は、非配偶者間人工授精(AID: Artificial Insemination with Donor’s semen)と呼ばれるもので、日本初の実施は1948年とされています。当時は提供者と提供を受ける人のプライバシーが重視され、両者は秘匿されていました。
しかし現在は、AIDによって生まれた子の知る権利の問題としてクローズアップされています。本作の時代が連載年と同じ1970年だと仮定すると、当時9歳だった紀彦も2024年現在で63歳となります。物語は有津と佐衣子の男女のもつれが中心となっていますが、紀彦視点のその後の物語があったとしたら、どのようなものになるのでしょうか。
時代は生殖補助医療の論点を変化させましたが、自然は変わらず巡ります。リラ冷えの季節が終われば、札幌にもようやく本格的な夏がやってきます。
注
- ちなみに有津の専門は植物病理で、植物分類にも詳しく『北海道の草花』という本を出版しています。さらに泥炭の研究もしており、サロベツ原野に調査に行ったりしています。このような特徴から、北大農学部の助教授(作品発表当時)で植物園長も勤めた辻井達一さん(1931-2013)が有津のモデルとされることもありますが、作者の渡辺さんは辻井さんについて、植物のことを教えてもらっただけでモデルではない、と否定しています(渡辺淳一「リラとライラック」『渡辺淳一作品集月報3』文藝春秋1980, p.3)。