市内のメインストリートは、ほとんど雪がとけていた。雪どけ水が路の左右を流れ、それが車にはねられて道は汚い。
冬から春へ、札幌はいま、再生の苦しみを味わっているようだった。その街を美砂の車は北へ向かって走る。
北海道大学は札幌駅の北西の一角にある。全国の大学でも最大の敷地を誇り、そこに十二の学部が集っている。エルムの学園といわれるとおり、夏は広い芝生のあちこちに楡の巨木が長い影を落すのだが、いまは、巨大な技だけが手持無沙汰に空につき出ている。
明峯教授の勤めている低温研究所は、その北大の北の一隅にあった。
渡辺淳一『流氷への旅』(集英社1980, p176)
写真は低温科学研究所に向かう道です。右手に第二農場の歴史的建築群があり、奥の木立の向こうに低温研が見え隠れしています。
渡辺淳一『流氷への道』から引用した一節は、まさに最近の札幌の表情と一致しています。「北国の春」と一言でいっても、雪解け時期か草木が一斉に芽吹く頃か、都市か郊外かによってずいぶん趣は違います。札幌の今時期の汚さと、その後に訪れる生命の季節をあわせて「再生の苦しみ」と表現しているのは、流石「リラ冷え」「鈍感力」などの言葉をつくりだした作家、渡辺淳一と言えるでしょう。
第33回「物語の中の北大」で紹介する本作は、三ヶ所を舞台とします。冒頭で紹介した北大札幌キャンパスをはじめとした札幌、主人公の竹内美砂(みさご)の実家がある東京、そして紋別にある北海道大学 低温科学研究所 附属流氷研究所を中心としたオホーツクの三ヶ所です。
美砂は、オホーツクでは東京の家を懐かしみ、札幌や東京ではオホーツクの凍てつく海を思い焦がれます。風土が異なる三ヶ所の描写と、遠くにある彼の土地への美砂の心情が重なりながら、物語が進んでいきます。
24歳の美砂は親に進められた見合いに反発し、父の学生時代からの友人である北大低温研の明峯隆太郎教授の紹介で、1月に紋別にある流氷研究所を訪れます。そして主任研究員の紙谷誠吾に案内されて流氷の上に立ち、その青く静寂な世界と、無骨な中に優しさと蔭をもつ紙谷に惹かれます。その後、美砂は明峯教授の秘書としてつとめることになり、三月最後の金曜日に東京を発って低温研を訪れます。冒頭に引用したのはそのシーンです。
渡辺作品といえば男女の恋愛がテーマであり、本作も同様ですが、流氷やそれにまつわる研究シーンもたびたび登場します。紙谷は流氷研究所所属でレーダー観測や流氷に乗っての観測をしていますが、明峯教授は低温研の海洋学教室で海流を研究しており、助教授の今井正浩は海水の性質、講師の平山はプランクトンの生成が専門です。
この「低温科学研究所 附属流氷研究所」は「低温科学研究所 附属流氷研究施設」として実在します。1965年に設立され、本作発表2年前の1978年には宿泊棟が新設されています。そして2004年に「低温科学研究所 附属環オホーツク観測研究センター」となり、現在に至ります。
これまで「物語の中の北大」は2023年5月31日の第1回から33回にわたって、作家25人の32作品を紹介してきました。描かれた時代は有島武郎『星座』の明治から、早瀬耕『プラネタリウムの外側』の現在(近未来?)までの約130年間にもわたります。あらためて北大は北海道の歴史と風土とともにあるということがわかるシリーズでした。
今回で「物語の中の北大」はいったんお休みです。まだまだ紹介していない作品はたくさんありますが、それはまたいつかどこかで。