ピアニ・ローレットさんからのバトンは、考古学の加藤博文さんに渡りました。研究室の半分は、礼文島の遺跡から見つかったものが整然と並んでいます。礼文島は北海道の北の端、稚内から船で2時間ほどのところに位置し、南北12kmほどの小さな島です。でも加藤さんには「考古学的に相当貴重な宝の島」だそう。加藤さんの目の前にあるのは、礼文島の浜中遺跡から出土したものです。いったいこの大きな塊は何でしょうか?
北海道夕張市出身の加藤さん。歴史の教員だった父の影響もあり、幼いころからアイヌ文化に関心があり「チャシ」に興味を抱いていました。「チャシ」とは、柵で囲われたという意味があることから、砦のあとや防御施設ともいわれていますが、加藤さんは「チャランケ」という話し合いや儀式の場など様々な用途や機能があるのではないか、と考えているそうです。
そんなアイヌ文化や歴史に興味のあった加藤さんですが、札幌大学のロシア語学科に進学しました。
進学にきっかけは、親交のあった、札幌大学の木村英明教授の一言でした。「北の考古学をやりたいなら、まずロシア語を学びなさい」。少し疑問に思いつつも、アドバイスに従い、卒業後も木村先生のアドバイスで筑波大学大学院でシベリアの考古学を学びました。島根県立大学に在職中は、「ロシア語ができるから」とロシアとの交流事業担当にもなり、やがて「ロシア語ができる考古学者」は引き寄せられるように、2001年、北海道大学の助教授になり、2010年からアイヌ・先住民センターの教授に移動します。
加藤さんにとって、忘れられない留学の思い出があります。大学院時代、当時はまだソ連で、国内には評価してくれる人がほとんどおらず、必要な資料も足りません。次第に留学したいという気持ちが強くなり、ついに、1991年、旧ソ連への留学を実現させます。留学中のある朝、テレビをつけると、どのチャンネルからも「白鳥の湖」が流れていました。国家の一大事が発生し、報道規制が行われていたのでした。これは1991年のこと。ソビエト連邦が崩壊しロシア連邦が誕生した、まさに変革の年でした。入国したのは1990年のソ連で、出国するときは1992年にロシアから、というまれな体験をしたのです。
2011年から礼文島で実施している、国際フィールドスクールには、北大やカナダ、イギリスなどから学生参加し約1ヶ月間、発掘調査を行います。昨年度(2014年)も、56人程の学生が参加しました。
礼文島は、“Slow Tourism”が人気で、海外からの団体客や個人の旅行者がトレッキングなどを楽しめる場所として有名です。バトンを渡してくれたピアニさんも、偶然、旅行に礼文島を訪れて、遺跡発掘中の加藤さんに出会ったそうです。
通常一箇所の「遺跡」で、数千年間の人々の暮らしが連続的に観察できることは非常にまれです。しかし礼文島では違います。地層にそって連続的に近世アイヌの時代から数千年間の文化の跡がたどれるのです。このように時間軸にそって地層を上から下へと歴史の流れを直接観察できるのは極めて珍しいそうで、昨年はついに縄文時代の生活面に到達したそうです。
冒頭にもあったこの写真は、シャチの頭の骨です。7世紀ころのオホーツク文化前期の「シャチの送り場」から見つかりました。このようなシャチなどのクジラ類を送った儀礼の場は、北太平洋沿岸の海洋狩猟民の間に知られています。
日本の歴史では、縄文時代、弥生時代と変遷します。一方、北海道では、縄文時代のあと続縄時代が4世紀ころまであり、その後の時代に大陸から北周りで海洋狩猟民であるオホーツク人が海を渡って北海道にやってきたと考えられています。礼文島のほか、オホーツク海沿岸の網走や知床半島でも、オホーツク人の遺跡が数多く発見されています。
オホーツク人の一部は、その後アイヌ民族と融合したと考えられています。アイヌ文化では、神であるクマに感謝をささげる「クマ送りの儀」が有名ですが、オホーツク人の住居内にも、クマの頭骨を配置する「骨塚」があります。しかし野外では、シャチなどのクジラ類を送った儀礼の場はこれまでほとんど発見されていませんでした。
加藤さんは、「北海道には弥生時代がない、という人がいます。歴史の教科書には、本州の成り立ちは載っていますが、北海道独自の歴史は、道民ですら知らない人が多いのです。このオホーツク文化のその一つ。実は北海道はストーリーをたくさん持っているのです」と力を込めて、語ってくれました。
1年のうち半分近くは、遺跡発掘や海外調査など、フィールドに出かけている加藤さん。「残念なのは、4人の子どもたちと夏休みに一緒に遊べないことかな」と苦笑い。でも北海道から世界に発信する新たなストーリーに、子どもたちはきっとワクワクすることでしょう。
加藤さんからバトンを受け取るのは誰でしょうか。次のバトンもお楽しみに。