意識とは何か? 人間は何世代にも亘ってこの問題に取り組んできました。この課題をはじめ、「人間とは何か」を学際的な手法で解き明かそうとする研究者集団が北大に存在します。CHAINのみなさんです。異なる分野の研究者が一緒に研究する学際研究の場として2019年に開設されたこのセンターには、教員だけでなく文学院・教育学院・理学院・情報科学院…さまざまな大学院の学生が集います。彼らが受けている授業を取材してみると、そこには学問の自由が保障された「居心地のいい」場所がありました。誰もが制限を受けることなく自由に質問し、議論できる場所となっていたのです。CHAINにはどんな人たちが集まっているのか。なぜ彼らはCHAINの教育プログラムを受講するのか。取材しました。学際研究に興味のある方、大学院の博士後期課程に進むか迷っている学生の皆さんにお届けします。
【増田理乃・CoSTEP18期本科生/国際食資源学院修士1年】
素朴な質問ができる場所。CHAINの授業「人間知序論Ⅱ」
10月12日、ちょっと緊張しながら「人間知序論Ⅱ」の授業にお邪魔したところ、その日は受講生全員でのポスター発表会。事前にA4用紙に自己紹介と研究内容をまとめて、前半と後半に別れて発表します。発表者はおもむろにポスターを取り出し、聞き手は興味がある発表者のところへ向かいます。
発表が行われ、質問や議論が増えてくると徐々に活気づきます。開始から5分後には発表者の声が聞きづらいほど。
「人間知・脳・AI研究教育センター」(Center for Human Nature, Artificial Intelligence, and Neuroscience:CHAIN) には、意識・自己・社会性・合理性といったキーワードにピンときた学生が北大のさまざまな大学院から集まっています。そのため研究内容は多種多様・十人十色。
測地線・相転移・擬人化主義…聞き慣れない単語が発表者からも質問者からもポンポンと飛び出します。初めは圧倒されていましたが、慣れてくると研究や分野の背景をわかっているもの同士の質問だけでなく、「そもそも測地線って何?」とか「その研究の意義はなんですか?」といった素朴な質問もたくさん投げかけられていることに気づきました。
「共有する文脈が違うから、発表者の言いたいことがわからない。だから、素朴な質問をすることができるし、そのような素朴な質問が自分にも返ってくる」。
こう語るのは18世紀のドイツ哲学を専門とするCHAIN2年目の清水颯(しみず・はやて)さん(文学院修士2年)。喧騒の中でもひときわ議論を白熱させていた清水さんは、CHAINで提供される議論の場が自分の専門性を高めるためにも役立つと言います。
「CHAINに来ると違う分野同士で議論するので、自分の分野の常識は通じません。だからこそ、常識を自分でちゃんと考え直す機会をもらえるんです。こういう経験を何度もすることが、一研究者としての態度を変えていくんだと思います」。
一方、文化人類学を専門とする池原優斗さん(文学院修士1年)は、CHAINを受講する中で自分の立ち位置を意識するようになったそうです。
「文理融合型の研究は、お互いの分野について理解しなければうまくいきません。だから他分野について学ぶことが大事です。一方、専門的に研究しているからこそ扱える問題に、各自が責任をもって取り組むことも重要です。ここで学ぶようになってから自分の立ち位置をより一層意識するようになりました」。
複数の学問領域に所属する研究者が協力することで、単独の学問分野では解決が困難な問題に挑戦する学際研究。そうした研究がしたい学生が集まったCHAINだからこその意識だと感じました。
実は池原さんの研究対象はCHAIN自体。文化人類学分野では参与観察という方法がよく用いられます。参与観察とは、研究対象となる社会集団の中で調査者自身が生活しながら、その集団の特質を長期間に亘って観察する調査方法です。池原さんもCHAINに身を置くことで学際研究という活動はどのように進められるのか、異分野が融合する時には一体何が起こっているのかを文化人類学者として明らかにしようとしています。まさに研究の真っ最中なのです。
授業が終了した後も議論は尽きないようであちこちで話し合う様子が見られました。学生さんたちがCHAINを楽しんでいることがビシビシ伝わってきました。
CHAINには個性豊かないろんな人がいる
後日、CHAINを受講している米村朱由(よねむら・あゆ)さん(文学院修士1年)と石原憲さん(生命科学院博士1年)に受講した経緯や魅力を聞くことができました。
現在、行動科学を専攻する米村さん。実は大学院から所属を変えました。学部時代に学んだ比較解剖学と、大学院から始めた馬を対象とした動物心理学の研究を繋げるためにCHAINに入りました。
「初めは脳の解剖ができる医学部の授業を取ろうと思っていました。大学時代に動物の脳を比較していたので人間の脳にも興味が出て。そのことを指導教員に伝えたら、CHAINという教育プログラムがあるんだけど、どうかなって勧めてくださりました。両方取ることは時間的に厳しかったので、どちらか一つに決めるとき悩みましたが、他分野のいろんな人と交流できるって面白そうと思って結局CHAINに入ることにしました」。
取りたいプログラムが他にもあるなかCHAINを選んだ米村さん。CHAINの門戸が意外と広いことに気づいたそうです。
「入る前は、何をしている場所かよくわかりませんでした。でも入ってみたら哲学の人、数理系の人、現象学を学ぶ人まで本当にいろんな専門の人がいました。みんな独自の視点から意見を言ってくれるので、私も専門外のことでも忌憚なく意見できる。こういうところがすごくいいなと思います」。
博士課程も視野に研究を進める米村さんは、今後CHAINで自分の研究を誰にでもわかりやすく伝えること、専門外の研究者と積極的に交流することのふたつを目標にしています。研究が忙しい中、CHAINを楽しみ尽くしている米村さんがとても印象的でした。
CHAINにいるとすごく謙虚になる
続いてお話を伺ったのはCHAIN3年目の石原憲さん。学習院大学で4年間物理を学んだのち、興味が物質の性質から人間そのものに移っていったそうです。調べていくと、物理出身で「意識」「神経科学」を研究している人がいるということがわかり、自分も意識を研究してみたいと思うようになりました。
「やりたいことのできる大学院を国内外探している時に丁度CHAIN設立がありました。それで、ここだ! と思って北大にきました」。
その後生命科学院に入学した石原さん。学籍上は生命科学院ですがCHAINで研究したいと研究室の指導教員である中岡慎治さん(数理生物学研究院・准教授)に交渉し、日々の研究はCHAINで行っています。人間知序論ⅡではTAを担当していて、初回授業では発表のデモンストレーションとして自分の研究内容を発表したそうです。
「発表後に『石原さんのいう”自然”ってどういう意味?』と質問がありました。僕個人はこの世界のルールを指して”自然”と言ったつもりでしたが、うまく答えられず。質問者も納得していない様子でした。それで”自然”という言葉を他の人はどう捉えているか疑問に思い、意見交換の場を企画したんです。いろんな分野の人が十数人集まって議論できたのですが、その中で自然という言葉への想定や概念、あるいは現象が各分野それぞれ違うことが見えてきて学際的な場の意味を実感しました。僕も議論を通してうまく言語化できるようになり、自分のモチベーションがさらに鮮明になりました」。
意識を自然科学の土俵でちゃんと理解したい、研究したいというモチベーションで活動してきた石原さん。CHAINにいると謙虚になると語ります。
「CHAINでは毎回分野の異なる人たちと議論することが多いので、いろんな分野の人たちの視点や考え方を得られます。そうすると、自分の分野が一番だなんて思えなくなります。今まで考えたこともなかった!という気づきを毎回得られるので、CHAINにいるとすごく謙虚になると思います」。
修士の2年間の間CHAIN一筋だった石原さん。他の学生と一緒にランチセミナーや合宿を企画してきました。やりたいと思ったこと、必要だと思ったことはなんでも企画できるというところがCHAINの魅力の一つだと言います。でも、合宿の企画まで考えるというのは大変なのでは?
「研究って、授業を受けるだけでなくて、研究や議論をする場みたいなものを自分たちで作っていくことが重要だと思うんです。その必要性をみんな前提として持っているからこそ、主体的に動けているんだと感じます」。
120歳まで研究を続けることを目標と話す石原さん。すでにその素養はCHAINで培われているようです。
学生の主体性が育まれる場所 CHAIN
CHAINの授業や学生を実際に取材していく中で、CHAINが受講生にとってたくさんの気づきや新しい価値観を得られる場所になりつつあることがわかりました。ところで、そもそもCHAINはなぜ設立されたのでしょうか? CHAINのセンター長、田口茂さん(文学研究院・教授)にお話を伺いました。
CHAINの構想が始まったのは2017年。「人間とは何か」という問いに学際的手法で挑戦するさまざまな分野の研究者の交流の場というアイディアに意気投合した教員が集まり、学際的研究、博士課程の教育のプログラムとして構想されました。そして、学内のプロジェクトとしてセンターを設置できることになり、2020年に今の形で教育プログラムが開始されました。「多分野の研究者が無理矢理集められたのではなく、非常に面白いプログラムだから一緒にやろうと、学問的興味関心から出発したところにCHAINの特徴があります。この熱がなかったらセンターは設立できなかったと思います」と田口さんは語ります。
CHAINプログラムは修士から博士の5年間、あるいは博士の3年間という長期プログラム。博士人材に付加価値をつけ、研究者としてだけでなく一般企業への就職や起業という形で社会に出て活躍する人材を育成するという目的があります。
これまでの日本では、博士課程の先が見えないという不安が学生にありました。そのため修士課程の終わりで、もう少し勉強したいと思っても博士課程に行く決断ができず、泣く泣く就職した学生もいたのではないでしょうか。ところが、「実は博士まで行って一般企業に勤めるということは、今では普通にできる」と田口さんは述べます。
「例えば、CHAINのプログラムでは哲学専攻の学生が脳科学やAIを学ぶことも可能です。本人の力になるのはもちろんですし、幅広い知識をもち、目的のためにどんな知識や学問が必要かを理解する人材は企業にとっても魅力的なわけです。そうなれば、もう少し研究がしたい院生の人たちが博士課程に進む一歩を後押しできると考えているのです」。
「もちろん文理融合的な面白い研究を一緒にやろうよというのが大前提ですけれど」と微笑みながら付け足す田口さん。実際、CHAIN受講生の主体性をとても嬉しく感じているそうです。現在、CHAINの学生たちは、ランチセミナーや合宿を自主的に企画・実施しており、また、学生同士の学際的研究のプロジェクトもいくつも立ち上がっています。「主体性、こればっかりは私たち教員が言ったからって身につくものじゃないですからね。私たちもコロナ禍の中試行錯誤して進んできて、大変なこともありましたが、無駄じゃなかったかなぁと、嬉しく思います」と田口さんは言います。
今後、より多くの人にCHAINに興味を持ってもらうため、今年の後期から1年生向けの全学教育で「人間知の学際的探究 〜CHAIN入門〜」という科目が開講されています。またCHAINのパンフレットも作成され全学に配布されています。
「もしCHAINにちょっとでも関心を持った学生さんは、ぜひ月に1度ほど開催しているCHAINセミナーを覗いてみて ください。雰囲気がわかると思いますから。そして、関心を持ったら、ぜひ気軽に連絡してください。CHAIN教員や履修生の皆さんが 応対してくれると思います」。
取材を終えて
北大にはたくさんの魅力的なプログラムがあります。今回取材したCHAINもその1つ。分野を超えた学びの中で、全く新しい研究、学生像を生み出す「可能性の宝庫」でした! 長いようで短い修士・博士課程。こうした特別プログラムを知ることは、新しい知識や経験、出会いを得るチャンスなだけでなく、これからのキャリアのことを考えるきっかけにもなると思います。