帰り道、三人は歌をうたった。
おそくとも、秋には母さんは退院する、もしかしたらもっと早く家に帰れるかもしれない。先生がそうおっしゃったのだから、たしかなことだと、父さんから病室できいたのだ。
みやこぞやよいのくもむらさきに
はなのかただようゆうげのむしろ
父さんは父さんの歌をうたい、
しろやぎさんからおてがみついた
くろやぎさんたらよまずにたべた
子どもたちは子どもの歌をうたった。
宮崎駿 作・久保つぎこ 文『小説 となりのトトロ』(徳間書店1988, pp87-88)
第19回となる「物語の中の北大」で紹介するのは、有名なアニメーション映画『となりのトトロ』(1988)の小説版の一節です。日曜日に父さんの草壁タツオと娘のさつき・メイの3人で、入院している母さんをお見舞いした帰り道。この場面自体は映画版でも描かれていますが、歌う場面はありません。また、トトロの舞台は埼玉県所沢とされており、北大のキャンパスはもちろん登場しません。
しかし、なんと父さんは明治45年度恵迪寮歌『都ぞ弥生』を作中で歌っているのです。ただし本来の歌詞は「うたげのむしろ」ですが、お父さんは「ゆうげのむしろ」と歌っています。家に帰って晩御飯(ゆうげ)にしよう、という意味なのでしょう。父さんのお茶目な性格がうかがえます。
この一節から、父さんは北大卒なのではないか、という説もあるようです。設定としては、物語の時代は1950年代で、32歳のタツオは東京の大学で非常勤講師として考古学を教えていることになっています。時代が1950年代頭なのか終わりなのか、北大予科に何歳で入学したのかによってかなり幅がありますが、父さんは戦前から戦中に入学したことになります1)。
考古学を教えているということは、大学でも考古学を学んだということでしょう。現在北大で考古学を担っているのは文学部ですが、その前身である法文学部が設立されたのは戦後の1947年です。
では、タツオは北大生ではないと結論できるかというと、そうではありません。1947年以前も考古学研究は農学部や医学部で行われていたので、そこで学んでいた可能性も捨てきれません。
一方で、寮歌を歌っていたからといって北大生だとは限りません。帝国大学の自治寮同士は深い交流があり、長期間居候するといった関係がありました。そのため、タツオが恵迪寮に居候していた、あるいはタツオの大学の寮に北大生が来て、それで「都ぞ弥生」を気に入って覚えた、という可能性も考えられます。
結論は出ませんが、父さんと「都ぞ弥生」の関係を想像させる情報が少しだけあります。この場面には「五月に五月と五月をつれて」という小題がついています。「5月にさつき(皐月=5月)とメイ(May=5月)をつれて」という意味です。つまりこの時は5月ということになりますが、「都ぞ弥生」の「弥生」は3月を意味します。替え歌をするなら「みやこぞさつきのくもむらさきに」とすべきでしょうが、そこを変えてしまうのは「都ぞ弥生」を愛する父さんにはできなかった・・・ということかもしれません。
注
- タツオの考古学研究の分野や、太平洋戦争下でどのような状況にあったのか、といった情報があればもう少し彼の詳細について絞り込めますが、十分な情報はありません。『となりのトトロ』は『蛍の墓』と同時上映であり、明確に物語性を分けるために、『となりのトトロ』では戦争について言及しない内容になっているためと思われます。