すでに夕暮れが始まっていたが、キャンパスにはまだどこかの運動部ががなり立てているらしいかけ声や、馬術部の馬のひづめの音などが響いていた。並木を飾る植物の実が漂わす甘やかな匂いも、美輝の鼻腔の奥まで届いてくるようだった。素晴らしいキャンパスだわ、と美輝は夕映えの始まった空を見上げながら思う。だってここは、本当に一人が似合う。これまでどんなに街中にいてもそう感じたことがなかったけれど、このキャンパスでは、誰かが一人で風を受けて颯爽と歩いていく、そんな姿がよく似合う。きっとそれが伝統というものの力なのだ。
谷村志穂『海猫』初出2002(新潮社2004, p137)
心地よい喧騒に包まれるキャンパスの風景とともに、美輝の真っ直ぐな性格が伝わってきます。「物語の中の北大」第24回で紹介する『海猫』は、三つの章から構成される長編小説です。
第1章と第2章は、函館と南茅部を舞台に、漁村に嫁いだ美しい人妻、野田薫をめぐる激しく哀しい物語です。続く第3章は、主な舞台を1977年の札幌に移し、北海道大学に通う薫の娘、美輝がその出自に悩みながら、自らの愛を見つける物語となっています。
写真は現在の北18条門のロータリーです。美輝がいた当時は、ロータリーはありませんでしたが、奥に見える事務室(1910年築)を含めた第2農場は当時のままです。馬術部の厩舎も当時はありましたが、環状通エルムトンネル(1997-2001年工事)によって24条に移転しました。しかし、今の学生も美輝と同じように、キャンパスのもつ「伝統というものの力」を感じているのではないでしょうか。
『海猫』ではそのほかにも、試験会場、弓道場、恵迪寮の天井のティーバッグ、農学部、クラーク会館、銀杏並木など、古き良き?北大の様子が、農学部出身である谷村志穂さんならではのディティールで描かれています。第9回の「物語の中の北大」では、農学部のらせん階段が登場する谷村さんの作品「雪ウサギ」も紹介しました。
北大農学部出身の作家には谷村さんの他にも、1982年に芥川賞も受賞した加藤幸子さん(1936-2024)や、永井するみさん(1961-2010)、2024年直木賞にノミネートされるも先日惜しくも選にもれた岩井圭也さん(1987-)がいます。札幌農学校も含めるならば、有島武郎(1878-1923)も該当するでしょう。農学は文学の面においても北大の伝統を引き継いでいるのかもしれません。