分類学者、柁原宏さん(理学研究院 准教授)のヒモムシ研究について迫ったロングインタビューも今回で最終回です。美しいヒモムシについて語る柁原先生は、ひたすら楽しそうでした。でも柁原先生も分類学も、ただ楽しい、面白いだけの存在ではありません。分類学研究の意義と分類学者の使命について伺いました。
【インタビューワー:佐藤丈生/成田真由美・CoSTEP修了生】
分類学とは何か
佐藤 分類学の意義は、例えば、動物を見つけてきたときに、何も資料がないと困る。それを無くすためなのかなと思ったのですが。
柁原 この生き物はどんな生き物なのか、何の仲間なのか、という情報を与えるのが分類学かなと思っています。自然科学の目的って何かと言うと、自然の現象にパターンを見出して、それがどうしてそうなるのかとかを、一般的な法則で説明すること。ですけれども生物は多様なので、例えば脊椎動物でしかみられない固有の現象ってあるじゃないですか。ではその脊椎動物とは何だろう、という生物学における一般性の及ぶ範囲を与えるのが分類学だと僕は思っています。さっき佐藤君が言ったように、再現性を担保するということにつながるのですかね。この生き物でこうだった。別な人が同じ生き物でこうだった、と言うには、この生き物とあの生き物が同じ種類だよとか、同じグループに属していますよって言えないといけない。枠組みですよやっぱり。一般性の及ぶ枠組み。
佐藤 実際には普段、どうやって観察や分析をなさっているのですか。
柁原 小さいヒモムシもいますから、頭の回りの溝ですとか、眼点の配列とか、顕微鏡で見ないと分からない。内部形態を観察するときは、パラフィン連続切片ですよね。そういった組織学的手法で形態を観察しています。あとは遺伝子の配列ももちろん調べています。
柁原 この先、そう遠くない将来、切片標本ではなくマイクロCTとかになって、組織学は役目を終えるのかもしれません。けれど、まだ過渡期なのですね。組織学の情報に基づいて構築された分類体系が、まだ完全に次世代の情報に置き換わっていない。だからまだまだ組織学の重要性は無くならないと思います。
佐藤 いずれDNAの配列などをつかった分子系統に置き換わるのですか?
柁原 それはあり得ないです。連続切片という手法が、何か別な、マイクロCTとかに置き換わると申し上げたのです。形態学の情報が、形態とは別の情報に置き換えられるということはありえないと思っています。そもそも形態学と分類学と系統学とでは互いに補完することはあっても各々目指すところが異なるのです。
形への飽くなき興味
佐藤 今までのお話全体を聞いて、やはり柁原先生は実体、形に関心があるのかなと思ったのですけれど。
柁原 それは好みなのだと思う。目に見えるものを扱いたかった。
佐藤 だから分類学はすごく柁原先生にフィットした。
柁原 分類学といっても実態は比較形態学なのです。具体的に何をしているかというと、形を比べている。僕は、自分は視覚、ビジョン、形で考える人なのかなって思います。院生だったときに、学生同士で発表の練習をしていて、ある人がコケムシのある部分を「丸い」と言ったときに、僕が「それは丸じゃなくてドーム型だと思います」と言ったらしいのです。そうしたら、そのやり取りを聞いていた先輩が「カジはやっぱり形を見ている。形態学者なんだなと思ったよ」と、しみじみ言われたことがあって。人からそう言われて「自分ってそうなんだ」と思ったことがありました。
佐藤 丸ではなくて、ドーム型。3Dで見たということですか。
柁原 なのかね。そのときはね。
佐藤 そういった形の中でも、ヌラヌラとした質感とひも状の形というのが、やっぱり美しいと感じた。
柁原 たぶんずっと見ていられるのです。水族館とかに行くと、ジーっと、カニとかの触角がピコピコしているのとか。家族とか友だちとかと行くと、先に行っちゃって、変な人と思われたくないからあまり見ずに行ってしまうのだけれど、良いよと言われたら、ずっと見ていられる。
研究の原動力、そして分類学者の使命
佐藤 柁原先生個人として、こういうモチベーションで分類学をやっているんだ、という個人的意義、研究を進めている原動力はなんですか。
柁原 個人的には、ぶっちゃけて言うと楽しいからなのです。
佐藤 なるほど。ずっと見ていたい。
柁原 大人の社会的なテイストをまぶすと、いま人類の活動によって第6番目の大量絶滅の時代を迎えている。この失われていく生物多様性を、失われる前に記述して記録を残すという意義があります。分類学ないしはその関連分野、マクロ生物学者たちがもっと活躍して、もっと情報学とも融合し、フィールドのデータが、一般の人たちにも、あるいは政策を立案する人たちや法律を作る人たちのもとにも、かみ砕かれた形でシェアされて、それに基づいた政策、法律が立案、実行される。そして多様性がそれ以上失われないようになる。これが実現されるのが、僕の理想とする世の中なのです。そうなるにはたぶん、ものすごく時間がかかる。でも無理だって言って何もしないよりは、100年後200年後に実現するために、世界中の分類学者はそういう社会に近づける使命を持っていると思うのです。
佐藤 それと関連すると思うのですが、分類学ってどういうところで応用されるのかなと。
柁原 例えばデング熱。国内で患者さんが出てとか、いろいろあったでしょう。分類学が応用される場面の一つは、そういう病気を媒介する蚊の種類が同定できたりすることですね。
佐藤 ヒアリもそうですね。急にヒアリの研究者が頼りにされて。
柁原 そうですよね。食品としての魚の種類だって分類学だし、ワシントン条約で輸出入の禁止されている動植物も、分類学が無くて学名が無かったら、他の国と情報のやり取りもできない。「この生き物、何ですか」というとき、必ず分類学の成果がそこには役立てられている。
佐藤 そういう応用にプラスして、もっと生態系保全にも、情報学との融合でどんどん分類学が使われていくべきだなと思いました。逆に、時代が進むにつれて、分類学の使えるところが広がっていっているなと感じました。
「好きだから」だけではなく、社会のなかの新しい分類学を目指して
柁原 「生き物が好きだから分類学をやっている」というのは大事。「それダメ」とか言われたら、研究者はいなくなってしまう。だいたい分類学がやりたい人というのは、生き物が好きだから理学部でやっているのです。と思うのだけれど、「好きだから」だけではダメなのかなとも思います。「税金で、そんな趣味のお楽しみでやらせてるんじゃないぞ」っていう人たちには、さっき申し上げたような大人の理屈を言えるようにしておかないといけない。説明責任というやつです。そういえば、僕が学生のとき、当時の指導教官の馬渡先生にしみじみと「そういうのが言えるようになっておけよ」と言われましたね。
佐藤 ただの方便として言えってことじゃないですよね。
柁原 そうです。そのときに「えへへ」と言っちゃだめ。本当に考えて真面目に言わなきゃだめ。さっき申し上げたのは、僕がいろいろ見聞きして、僕が考えた、自分の中での答えです。僕は、分類学バッシングというか(笑)、「だから分類学はダメなんだ」みたいなセリフを何べんも聞いてきて、そこで醸成された思想ですね。信念というか。趣味的側面はあるのだけれど「趣味じゃないんだ」って。その上で、分類学の情報が統合されて、一般の人と共有していく枠組みが必要。植物や昆虫、魚類などですでに進んでいる分野もあるのですが、まだ全然足りないのです。たとえば情報学との融合とか、まだまだやることがたくさんあるはずなのですけれど。
佐藤 逆に言うと、分類学とそれ以外の分野のスキル両方を持っていたら、ものすごい強みですね。
柁原 ですから、あなたたち科学コミュニケーターの助けが、大いに必要なのではないですか。「こういうことをしている人たちがいるんだよ、やることがまだあるんだよ」っていう。僕たちだけじゃ、やっぱりダメなのだと思いますよ。それこそ、相手の言語が分かる人、つまり仲介者、インタープリターがいないと。
佐藤 研究者同士をつないで、新しい分野を生み出す。それが最終的には、分類学の情報に基づいていろいろなことを実現できる社会につながるとしたら、それはすごく大きな科学コミュニケーションの役割ですよね。
柁原 成さねばならぬことはたくさんある。
佐藤 成さねばならぬことだらけだなって、そして分類学って本当に生物学の基礎にあるんだな、とお話聞いていてすごく思いました。
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3回にわたったインタビューの最後では、話は分類学研究にとどまらず、科学と社会をつなぐ科学コミュニケーションにもひろがりました。ヒモムシという小さく奥深い世界にはまりながらも、ひろく人間社会もみる分類学者の視点がそこにありました。