植物の光合成や人間の呼吸にかかわる物質にポルフィリン化合物があります。ポルフィリンは”生命の色素”とも呼ばれ、ピロールと呼ばれる4つのユニットが、4つの炭素原子で連結された環状構造を持つ化合物の総称です。ポルフィリンの研究が行われて100年以上経つ中「ピロールが3つのポルフィリンが自然界でも人工合成でも全く見つからない」ことが未解明の謎として残っていました。謎を解くカギは「カリックス[3]ピロール(calix[3]pyrrole)」これまで多くの研究者がこの化合物の合成に挑戦する一方、成功する者は誰一人いませんでした。この物質を2021年に世界で初めて作り上げたのが、北海道大学の猪熊泰英さん(北海道大学創成研究機構化学反応創成研究拠点(WPI-ICReDD)、大学院工学研究院 准教授)らの研究グループです。カリックス[3]ピロールを追い求めた猪熊さんに研究の軌跡をうかがいました。
京都大学でのサブポルフィリンの合成
カリックス[3]ピロールは、ピロールを3つもったお椀の形状をした化合物です。カリックス(calix)は聖杯を意味します。猪熊さんは、京都大学の修士課程在籍時から、この化合物に狙いを定めて探求を続けていました。きっかけは、当時の恩師、大須賀篤弘先生が、2005年の初頭に猪熊さんに指示した、ピロールが3つのサブポルフィリンの合成です。当時はサブポルフィリンは合成できないと考える研究者が大半でした。ところが、修士2年の猪熊さんは研究を初めておよそ2ヶ月後、世界で初めてホウ素を持つサブポルフィリンの合成に成功したのです。なぜこんなに短期間で常識を覆す成果を挙げることができたのでしょうか。
逆説の発想
猪熊さんは「目標としているサブポルフィリンに近い形状の化合物は存在する、だから、合成は可能に違いない」と予想しました。そこからさらに「にもかかわらず多くの研究者の試みがうまくいかないのはなぜか」を考え「インターネットの情報検索では出てこない化合物にこそサブポルフィリンを合成するヒントがあるのではないか」と結論しました。ネットで調べてわかる化合物で作れるのならば、もうすでにどこかの研究者が合成に成功しているはずだからです。当時は現在と比べてネットで網羅的に情報が得られるわけではありませんでした。そこで猪熊さんがとった方法は、1ヶ月間、毎晩図書館へ通い詰め、収蔵されている冊子のジャーナルに掲載された研究をレビューすることでした。そして、図書館で見つけたドイツ語で書かれた雑誌に掲載されていた化合物を用いて、サブポルフィリンの合成に世界で初めて成功したのです。「合成ができるはずのものが、できていないのはなぜか。」この逆説の発想が研究にブレイクスルーをもたらしました。
ポルフィリン化学100年の謎に挑む
猪熊さんは、ホウ素を用いることでこれまで不可能と思われていたサブポルフィリンが合成できることを証明しました。すると逆に謎は深まります。「ピロールが3つのサブポルフィリンが合成できるならば、ポルフィリンの生成過程で、ピロール3つの環が形成されることもありうるはずだ。にもかかわらず、ピロールが3つのポルフィリンが自然界でも人工合成でも全く見つからないのはなぜか。」猪熊さんをはじめとする研究者はポルフィリンの生成過程に現れる中間体に目をつけていました。ポルフィリン環のサイズを決定する中間体をポルフィリノーゲンと呼びます。ピロールが3つのポルフィリンができるとするならば、その前段階としてピロールを3つ持ったポルフィリノーゲンが合成されるはずです。これこそが謎を解くカギになるカリックス[3]ピロールです。この化合物の合成はまだ誰も成功していません。なによりもこの化合物が本当に存在するかもわかっていませんでした。修士過程でサブポルフィリンの合成に成功した猪熊さんの次の目標は、世界初のカリックス[3]ピロールの合成によって、ポルフィリン化学100年の謎を解き明かすことでした。
留学経験
猪熊さんは、博士課程在籍時に、テキサス大学に留学し、カリックス[4]ピロールを使った研究の第一人者、セスラー教授(Jonathan L.Sessler)の元で学びます。ピロール3つのサブポルフィリンを合成した猪熊さんと、カリックスピロールの世界的研究者がタッグを組めば、カリックス[3]ピロールの合成も実現可能だと考えたのです。セスラー教授との初めてのディスカッションで、セスラー教授は猪熊さんに、カリックス[3]ピロールの前段階になる化合物の形状を提示しました。しかし当時博士課程の学生だった猪熊さんは、提案された化合物の合成方法を思いつくことができませんでした。そのため、猪熊さんはセスラー教授の提案とは違う方向から合成を試みましたが、結果はうまくいきませんでした。しかし、このセスラー教授の提案は後に猪熊さんの「カルボニルひも」の研究に結びついていくものになりました。
東京大学での助教時代
猪熊さんは、2009年にサブポルフィリンの研究で学位をとり、同年、ポスドクを経ずに東京大学の助教の職に就きました。助教時代の7年間、ポルフィリンに関係する研究は最後の1年を除いてほとんど手をつけることができませんでした。代わりに猪熊さんは東京大学で、これまであまり縁のなかったX線単結晶構造解析装置を用いた研究に携わることになりました。この間に猪熊さんは、X線単結晶構造解析装置を用いて分子の構造を可視化する技術のエキスパートになり、今では有機化学の分野では他の研究者が助言を請うほどのスキルを持っています。この装置を使うと、目で見ることができない分子の形状を3次元画像にあらわすことができるのです。猪熊さんの持っているX線単結晶構造解析の高度なテクニックが、後にカリックス[3]ピロールの構造解析へとつながっていきます。
北海道大学での「カルボニルひも」の研究
2016年、猪熊さんは北海道大学に准教授として着任し、自分の研究室を持ちました。新天地の北の大地で、猪熊さんは再びポルフィリン化学の謎に挑みます。狙いはカリックス[3]ピロールの合成です。しかしカリックス[3]ピロールをテーマとした研究費の申請はなかなか実を結びませんでした。そこで、猪熊さんは「目標をブレイクダウンして一つひとつクリアしていこう」と考えました。カリックス[3]ピロールの前駆体のアイディアはセスラー教授が伝授してくれていました。留学当時は思いつかなかった合成方法に対して、猪熊さんは一つの方針を持つようになっていました。それが、ひも状の分子「カルボニルひも」の合成です。6つのカルボニル基をもったカルボニルひもを環状にすることで、前駆体の形状を再現することができます。最終的なピロール環は2つのカルボニル基につき1つずつ合成できることが知られています。猪熊さんは、まずはいったんカルボニルひもに焦点を当てて研究を進めることにしました。この研究を通じて少しずつ成果を挙げて、必要な化学反応を精査し、ラボのメンバー全体の経験値を高め、研究費を獲得することにしたのです。
ラボのメンバーの活躍
まず最初に6つのカルボニル基のユニットをもったカルボニルひもを合成し、次にそれを環状にすることで前駆体を構成し、最後にカリックス[3]ピロールの合成を完成させる。方針も固まりいよいよ研究も大詰めの局面に入ってきました。2019年に眞部夢大さん(大学院総合化学院 博士課程2年)が、最初のステップである、6つのカルボニル基をもったカルボニルひもの合成に成功しました。次は環化するための合成です。カルボニルひもの両端を閉じるように反応を設計すれば、環は完成するはずです。しかし、この合成はなかなかうまくいきませんでした。後にわかったことですが、3つのピロールの場合、4つのピロールに比べて環が小さくなるため、環を閉じるために強い力が必要になります。既存の反応では環を作るための力が足りなかったのです。
この結果を受けて、猪熊さんは研究が長期戦になることを覚悟したそうです。この時、ラボの稲葉佑哉さん(大学院総合化学院 博士課程1年)がある形状の化合物を持ってきました。これこそが、ひもを環状にするための切り札だったのです。元になるカルボニルひもについている2つのカルボニル基を結んでフランと呼ばれる小さな環を作り、その上で全体を環化することで、カルボニルひもを環にする。そして、環した後にフランを解くことで前駆体を構成する。この方法は「こうきたか」と他のプロの研究者も唸る手順です。猪熊さんも「机の上で考えているだけでは出てこない合成経路」と述懐しました。留学時代に得たアイディア、そして北海道大学でのカルボニルひもの研究、そしてラボのメンバーによる思いがけない発想、この三つが合わさることで、2021年、猪熊さんは14年越しで追い求めていたカリックス[3]ピロールの合成に成功したのです。
最後の謎
ピロール3つのポルフィリンの前駆体にあたるカリックス[3]ピロールは、カルボニルひもを用いることで猪熊さんの手で世界で初めて合成され、その存在が確認されました。すると最初の問いがさらに謎めいてきます。「カリックス[3]ピロールは存在する、にもかかわらず、なぜピロール3つのポルフィリンの存在は確認できないのか。」猪熊さんの研究はこの最後の謎も解き明かすものでした。これまでのポルフィリンの合成には酸性条件が必要でした。しかし、カリックス[3]ピロールは酸性の状態で10秒も存在できず、即座にピロールが6つの環であるカリックス[6]ピロールに変わり、時間をかけてピロールが4つの環に変化していくことがわかりました。4つ以上のピロールの環に比べて、3つのピロールの環の形成には強い力がかかるためひずみが生じています。そのため、酸がきっかけになって「環がはじけて」しまうのだと考えられます。このことが、ピロール3つのポルフィリンが存在しない明確な理由になるのです。こうして、ポルフィリン化学100年の謎は猪熊さんの手によって解き明かされたのです。
修士の時から追い求めていた化合物を14年越しで世界で初めて合成し、ポルフィリン化学100年の謎に終止符を打つ。一筋縄ではいかない研究の道筋を、問いをたて、仲間を集め、計画を練りそして諦めずに一歩一歩着実に進めていく。これがまさに「研究を続けていくこと」の芯にあることなのだと、お話を聞いて感じました。最後になりましたが、猪熊さんをはじめとする研究グループのみなさま、今回の成果本当におめでとうございます。