みなさんは日頃から牛乳を飲んでいるでしょうか。私、橋本は毎日飲んでいます。愛飲する方にとっては、牛乳は至福の飲み物だと思います。最近あまり飲んでないな、という人もご安心ください。この記事を読めばホットミルクよりもホットな話題に感化され、きっと牛乳に思いを馳せることでしょう…
そんなおいしい牛乳をたくさん手に入れるための研究は、前回お伝えした牛舎や牧場のような場所にとどまらず、細胞というミクロの世界でも行われているのです。今回は乳分泌の研究を行っている小林謙さん(農学研究院 准教授)に研究内容やモチベーションについて伺いました。
【橋本昌樹・総合理系1年/新田智美・総合理系1年】
牛乳はどのようにして牛の体内で作られるのでしょうか?
牛乳は、乳を分泌する乳分泌細胞などが集まった乳腺胞という組織で分泌されます。ですから、乳腺胞の数が多くて、乳分泌細胞でつくられる母乳の量が多ければ多いほど、乳分泌量も増えていくということになります。
ではいかに増やすかというと、まず分泌量を減らしてしまう要素を除くことから始まります。それは何かというとひとつは炎症、もうひとつは気温ですね。夏場は牛舎内が40℃になることもあります。そういう時に妊娠しているウシの乳腺は十分に発達しない可能性が出てくる。こういった正常な分泌を妨げる要因を外す方法があります。
そしてもうひとつが、私が今やっているマイナス要因を省いた後にプラス要因を誘導する研究です。具体的には自然な形で乳分泌量を増やす食べ物を与える方法です。
乳分泌量を増やす食べ物なんてあるんでしょうか
まず原則として人間がその牛乳を摂取しても安全なものでなければいけません。いろんな植物・動物からいろんな成分を集めてきて、程よく効果のあるもので人間にも安全なものを見つけなきゃいけない。これ、すごい作業が大変そうですよね。
ただ、人類の歴史って実はすごいんです。乳分泌は人類が発達する上で必要不可欠な行為だった。母乳が出なかったり、かわりにくれる人がいなかったりした場合に、人類はどのように対策を練ってきたか。実は世界中で「母乳が出やすくなる」とされる食べ物が見つけられてきました。
(母乳の分泌に影響を与えるとされてきた伝統的なハーブ。左からレモングラス、フェヌグリーク、ペパーミント、アニス)〈出典:Rumphiusによる植物画(1747)/ Otto Wilhelm Thomé による博物画(1885)/Koehlerによる博物画(1897)〉
そういった食べ物は、ものによっては何千年と人間に摂取されてきたので、ある程度安全性が担保されています。ただ、本当に効果があるのかどうかを調べた研究はほとんどありません。そこで、古くから使われてきたハーブ類の有効成分を、ウシの培養細胞で確認する研究を進めています。
ウシに直接食べさせるのではないのですね。どのように研究を進めたのですか?
研究を始めたのが2011年ですが、最初の5年間でマウスの細胞での実験を確立させ、その後にウシの細胞で実験することを最初から決めていました。そして実際、2016年からウシの細胞での実験を始めました。マウスと違ってウシは大変でした。軌道に乗ったのが約3年後の2019年後半です。今はウシの細胞を用いた培養モデルも確立して実験を進めてます。
なぜマウスの細胞から研究を始めたのでしょうか?
世界中でウシの乳分泌細胞の培養方法は確立されていなかったので、まず実験方法が確立されているマウスから方法をさぐりました。
ウシの細胞はすごいやんちゃなんですよ。細胞を培養しているシャーレの中のイメージとしては小学生の塾を想像してください。真面目に席に座って自習しているのが乳分泌細胞で、席を立って遊んでいるのが増殖している乳分泌細胞になる前の状態の細胞です。マウスの細胞は塾に来たらみんな席に座って自習を始めるんです。でもウシの細胞はいつまでたっても動き回って増殖してしまって、なかなか席に着いて真面目に乳分泌という勉強を始めようとしないんですよ。
これはウシとマウスの授乳期間を考えると当たり前なんですよね。マウスの授乳期間は約20~30日間です。一方、品種改良されたウシの場合は300日間もあります。実は乳分泌細胞は時々死ぬので、乳分泌細胞も増殖する元の細胞もいなきゃ300日間もたないんです。なので、ウシの細胞は落ち着きがない、つまりシャーレにまいてもなかなか乳分泌を始めず増殖したりしている。
ではどうやって元気なウシの細胞に落ち着いて乳分泌してもらうのでしょう(笑)?
3年間かかりましたが解決策は、最初からウシの細胞をぎゅうぎゅう詰めにしてしまう方法です。遊びまわるスペースがあるから、遊んでしまう。だから最初から机と椅子しか置いてないスペースを作るんですよ。そこに椅子分のウシ細胞をまくと動き回る余裕がないので走り回らずに自然に乳分泌を行うようになります。
これらのマウスやウシの培養細胞をつかって、レモングラスとペパーミントの影響を調べました。その結果、レモングラスに含まれるシトラールは乳分泌を促進する傾向がありましたが、今後さらに検証していく必要があります。一方、ペパーミントに含まれるメントールは乳分泌を抑制することがわかりました。
約10年もかかったのですね。研究を続けるモチベーションは何ですか?
ふたつありますね。ひとつ目は偉大な先輩の研究者4人から教わった考え方です。1人目は学生時代の指導教員の中村富美男先生です。「ひたすら頭を使ってとりあえず考えるということが大切だ」ということを教えてくれました。2人目は福島医大に就職したときに出会った大森孝一先生です。「君が研究をやっているのは国民の税金をもらっているからで、それにこたえなきゃいけないんだよ」と言われました。そこでプロ意識が芽生えましたね。3人目は慶応大学医学部の助教時代に出会った安井正人先生です。安井先生からは「形容詞を持つ研究者になりなさい」と言われました。どういうことかというと、ひとつの専門分野を確立して、例えば「乳分泌細胞の小林」といった肩書きをもつ研究者になりなさいということです。最後に4人目は、ドイツに留学していた時に出会ったラルフ・パウス先生です。「ほかの人からクレイジーと言われる研究をしなさい」と言われました。4人の先生から教わったこれらの考え方を常に意識していると、研究者としてのモチベーションが保たれますね。
ふたつ目は乳分泌の研究を始めた年に生まれた娘が母乳を飲んですくすく育っていくのを見たことです。母乳のパワーや妻の苦労が伝わってきて、乳分泌の研究は社会的にやるべきテーマだと実感しました。そこで今はヒトの細胞を用いた研究なども行っていて、哺乳動物全般の母乳分泌を改善することを目標に研究を進めています。
様々な先生方からの助言とご家族の存在がモチベーションにつながっているのですね。研究で目指していることはありますか?
僕の研究の目的はひたすら「タネ」を作ることです。例えば、現場の人が役に立てるように、基礎研究の知見を出していきます。それが一つのタネです。母乳育児、そして酪農業の発展に寄与できるようなタネをたくさん作っていく、その知見のうちの一個が現場の人に応用できるようになる、というのが僕の目標です。
基礎研究者ならではの役割があるということなんですね
極端に言うと、100個のうち1個タネが育って、実を付けたら大成功だと思っています。それくらい基礎研究と現場が直結するのは難しいんですよ。ただ、このタネがないと新しい木は育たないんですよね。だから基礎研究や基礎研究寄りの応用研究をやっている人は、現場には使えないような研究を勝手にやっているのではないかと誤解されることがあります。が、あくまでも沢山タネを作っている、そしてそのうちの何個かは将来大きな木になってたくさんの実をつける。それが基礎研究者、応用研究者の仕事だと思っています。
今後は、牛乳の味を研究している三谷先生とも共同研究を活発化させていきたいと思います。やっぱり三谷先生や、北海道の酪農業と密なネットワークを持っている先生たちと共同研究して初めて北大でのアドバンテージが得られるんじゃないでしょうか。
牛乳なくして人生なし、人生なくして牛乳なし
今回の取材では私たちの生活に身近な牛乳に、飼育現場と細胞というふたつの焦点をあててその背景に迫りました。単に牛乳の知識を得るだけではなく、実際に牛舎に行って牛乳を飲んだり、研究者の考え方に触れたりする体験をして、牛乳をこれまでと少し違った価値で見るようになりました。
北大の酪農研究の歴史がつまった北大産の牛乳は、「北大マルシェ」と「ミュージアムカフェぽらす」で飲むことができます。ぜひ一度飲んでみてはいかがでしょうか。
店舗情報
- 北大マルシェ Café & Labo
百年記念会館 1階(北9条西5丁目。正門入って徒歩約3分)
牛乳やアイスクリームの他、レストランには北大牛乳モッツァレラチーズをつかった料理などもあります。 - カフェdeごはん 北大正門
インフォメーションセンターエルムの森(北8条西5丁目。正門はいってすぐ左手)
北大産の牛乳をつかったソフトクリームを食べられるのはここだけ。 - ミュージアムカフェぽらす
総合博物館 1階(北10条西8丁目。正門から徒歩約7分)
北大産の牛乳だけではなく、北大産の牛乳でつくったモッツァレラチーズのバケットサンドも味わえます。
この記事は、山本直輝さん、曲山碧海さん、豊田万紘さん、橋本昌樹さん、新田智美さんが、一般教育演習「北海道大学の”今”を知る」の履修を通して制作した成果です。