貧困の研究をするためには「貧困とはそもそも何か」とか「どのような状態が貧困と呼べるのか」という定義が重要になります。しかし、松本伊智朗さんは「そういった学問的な定義や、科学的な測定とかもだいじなんだけど、貧困について考えていくためにはもっと重要なものがある」と言います。それは、松本さんによれば、実践者や研究者といった立場の違いには依存しない、貧困について考えていくための根っこにある「違和感」です。松本さんの貧困研究を支えるその「違和感」とはどのようなものなのでしょうか。日本における子どもの貧困の研究をけん引してきた松本さんにお話しを伺います。
【木山瑠夏・CoSTEP17期本科生/国際食資源学院修士2年/原健一・CoSTEP特任助教】
貧困の研究をするためには、そもそも貧困とは何かといったことを把握している必要があります。そのためには、やはり、貧困の「定義」が重要になってくると思います。
はい、確かにそれには一理あります。しかし、科学的・学問的な定義・基準をきれいに作って、それに沿って政策を考えることで解決する問題だとは私は思いません。それよりも、私たちが共有している違和感が重要だと思います。それは、貧困の状況を目にしたときに、「おかしなことが起きている」と気づける感覚です。
メディアなどを通じて貧困と言われる状況を目にすることがありますが、確かにその時には「あってはならないことが起きてしまっている」といった感覚を覚えますね。しかし、日本だと、諸外国にある貧困とはちょっと違った貧困の状況があり、なかなか気づきにくい面もありますね。
実は、気づかぬところで、気づかぬうちに、貧困の状況を素通りしてしまっていることがあるんです。そのようなことが起こらないために、不公正に対する違和感というものをもつことができるようにならなければなりません。この感覚をもつことが一番たいせつなのであって、定義といったものはそのための道具に過ぎません。
素通りしてしまっている貧困があるかもしれないと聞くと、どきりとしますね…。例などはありますか。
例えば、小学生の頃、こんな宿題を出されたことはありませんか。「国語の教科書を音読して、それをお父さんやお母さんに聞いてもらいなさい」という宿題です。先生はこの宿題が生徒に役に立つと思って出したにちがいありませんし、たしかに、一見したところ、これは悪い宿題には見えませんね。しかし、この宿題の提示のしかたが、実のところ、貧困の問題とつながっていると言われたらピンときますか。
この宿題を出されたクラスには、親が共働きで、お家に帰ってもお父さんやお母さんが不在だという子どもがいるかもしれません。あるいは、家に親がいるとしても、仕事で疲れて、子どもの音読に付き合う体力がないかもしれない。夜に働いているようなお仕事をしているならばなおのこと難しいでしょう。この宿題は中間層の親には評判がよいのですが、共働きの親御さんには評判がよくないんです。
宿題の例と聞くと、なかなか貧困と直接結びつけることもむずかしいこともあるかと思いますが、そういった些細なことに貧困の経験を見て取れるようになることが重要なんですね。
そうです。なぜならば、個人の属性によって貧困の経験のされ方は異なるからです。例えば、シングルマザーだと子育ての苦労や、時間のなさや、ひとり親への偏見という形で貧困が経験されるかもしれない。子どもであれば、サッカー部に入りたいけど、合宿にお金がかかるからサッカー部に入れない…といった経験として現れてくるかもしれません。
学校の先生は家族の貧困を直接解決することはできません。しかし、さっきの宿題の問題を貧困の問題の一側面として気づける感覚をもっていれば、一人ひとりの貧困の現れ方を和らげることはできるかもしれませんよね。こんなふうに、貧困とは一見したところ無関係に見えるそれぞれの経験を、貧困の経験として見えるようにできることが重要なのです。
なるほど。しかし、そういった経験は見えにくくなっている面もあるように思います。どのようにそれを見ることができるようになればよいのでしょうか?
まさしくそれこそが、私たち研究者の役割だと思うんですよ。実は、研究者にも貧困の問題それ自体を直接解決する力なんかないと私は思っています。こんなに巨大な、長い歴史を持つ問題を研究者なんかが簡単に解決できるわけはないんです。極端に言えば、研究者はそのような責任を負うことができないと思います。
しかし、仮に研究者に責任があるとすれば、みんなが貧困についてしっかりと考えられるように、社会に問題を提起し、自らも考え続けるという責任はあると私は思っているんです。それがみんなで貧困の問題を考えていくために重要となってくるでしょう。仮に最初にあげた定義や理論が何かの役に立つのだとしたら、それは、こうした貧困の問題を見つめるための道具として役立つと言えるでしょう。貧困について考える人を増やすことは、研究の責任です。
見えなくなっている貧困を些細な状況のなかでも見えるようにするという役割が研究者にはあるんですね。
しかし、やはりその根っこには不正義への違和感というものがなければならないと思います。「不正義・不公正だ、これおかしいじゃん」という根っこにある違和感が重要なんです。「なんかおかしいじゃん」という社会の中の不公正、不平等なことに気づくことができる感覚、価値観をみんなが持っていることが貧困の問題の前提です。その感覚がしっかりと社会に根づくように、研究者としては頑張っていければと思います。