彼は、緑に染まったキャンパスを、農場の方に歩いた。
紫色に彩られた遠くの山脈が、陽炎のために、緑の地平からもちあげられているようにみえた。ヤチダモの林で、カッコーが鳴いた。農場の草原で、羊の群が遊んでいた。川沿いの楡の枝の股になったところで、カラスが巣をつくっている。
左手にはポプラ並木がみえる。梢の葉は、密集して翅ばたきしている金色の虫のようだ。風が変わると、虫の群は他の梢に移動する。あるときは、銀色に輝く小さな貝殻の集合体になる。貝殻をつけたまま、梢が揺れる。
洸治は体が熱っぽかった。気怠さが、熱になって、体の中に淀んでいるようだ。
風が吹いた。風の優しさが彼を落ち着かなくする。叢みを薙ぎたおして、風がポプラ並木の方に走っていく。蒼い天蓋から燦めきおちてくる光には、官能的なものさえ感じられる。体を鬱屈させるのはそのせいか。紫色に横たわる山脈は、女のトルソにみえた。
彼はこのキャンパスからの風景が好きだった。このキャンパスを持つ大学を離れることはないだろう。彼にはいま、風景が、これまでとちがってみえた。ひとりの娘を好きになっただけなのに。彼は自分の中に、容易に反応をおこしてしまう粒子の収蔵室があるのかもしれないと考えた。その粒子が反応をおこすと、体全体の細胞が熱を発し、風邪を引いたときのように、みるものがうるんでくる。
寺久保友哉「翳の女」初出1978『恋人たちの時刻』収録(新潮社1979, pp28-29)
前回に引き続き第21回の「物語の中の北大」も寺久保友哉(1937-1999)作品からの紹介です。恋をすることで、風景が輝いて見える若者の心情が巧みに表現されています。
この一節が示すように、「翳の女」は恋愛小説です。北大医学部の学生、西江洸治は歯医者で出会った村上マリ子に一目で恋に落ち、若干強引に近づきます。しかし彼女にはおもいもよらぬ秘密があることを、彼は徐々に知ることになります。物語の中では、生理学の授業が身に入らない、解剖実習をした、北18条駅が云々、といったように、北大での学生生活も描かれています。また、重要な土地として樽内市という名前で小樽市がよく登場します。本作は若干内容に変更を加えて、『恋人たちの時刻』というタイトルで1987年に映画化もされました。
今回紹介した場面の時代は、1978年6月だと思われます。なぜなら「夜霧のような六月の雨」という描写が、この場面と近い箇所あるからです。また、1977年8月に死去したエルヴィス・プレスリーのことだと思われる歌手が、最近死んだとも書かれています。したがって、1978年6月だと結論できるでしょう。
それから50年近くの年月がすぎました。洸治の恋愛観・行動は今と違っているところもあるかもしれません。また、農場の風景も若干変化しています。しかし心と風景の相互作用の本質は変わっていないのではないか、と感じさせる一節です。