日本の中でも自然豊かな大学として知られている北海道大学。その緑に癒されたことがある人はきっと多いことでしょう。ところで樹木と人間の繋がりを象徴するカルシッコを知っていますか。カルシッコとは死者の印や生没年、イニシャルを刻んだ木のことです。自然から得られる癒しについて興味を持った私たちは、主にフィンランドで自然と人間の精神的な繋がりを研究している田中佑実さん(文学研究院 文化人類学研究室 助教)にお話を伺いました。
【柿本心優・法学部1年/小林咲月・経済学部1年/平見琢翔・総合文系1年】
まず、田中さんが主に研究されているカルシッコについて簡単に説明をお願いします。
カルシッコは、フィンランドのキリスト教の受容の歴史と関わっていて、特にルーテル派教会の教えとキリスト教以前のフィンランドの土着の民間信仰とが混ざり合った風習なんですね。フィンランドの土着の信仰だけのものというわけでもないし、キリスト教だけのものというわけでもなくて、これらがミックスしているのがこの風習の面白いところなんです。
どういうふうにキリスト教とフィンランドの土着の信仰とがミックスしていったんですか?
ルーテル派教会がフィンランドに入ってきたときに教会は、死者は墓場で眠っていると言ったんですね。でも、その当時の人々は死者が眠っているということはまだあの世に行けていない、死が完了していないと考えました。死者が寂しくなったり、ちゃんとケアされていないと感じたりして、もしかしたら帰ってきてしまうんじゃないかと。それで、死者が帰ってこないように、この死者のカルシッコを作ったというわけです。印を木に刻んで、もし死者の霊が帰ってきたとしてもこの木を見たら「あっ自分はもう死んでた」と気づいて帰るという、その役割を果たすための木です。でも、時代が下ってフィールドワークに行ってみたらもはや人々に死者が怖いという感覚はなくて、この木はむしろ死者を思い出すための木として機能していましたね。
いずれは朽ちて倒れる木をわざわざ死者の記録を残すものとして人々が選んだのはなぜですか。
永遠である必要がないという考えが人々の中にあるのかもしれません。木も大きくなって、枝を広げて、葉っぱが出てきて、葉を落としたりしながら生きてる。それが、スケールは違うけれど人が生きて死んでいくこととリンクするのかなって思います。
こういった死者を弔う文化は現在も行われているのですか。
実は衰退していっているんです。その原因はいくつか考えられますが、まず死者への考え方が変わったということですね。現在のフィンランドはルーテル派教会に属している人々が多いです。正教会やローマ・カトリック教会も布教をしてきましたが、ルーテル派教会はとても熱心に布教を進めました。
最初ルーテル派教会は、人々がカルシッコを作っていたのを黙認していました。木には十字架も刻まれているし、いいかなと思ったのかもしれません。でもやっぱりこれは違うと。だって死者は寝てるんだから歩かないし、帰ってこない。だからこういう木を作る必要はないんですよ、とみんなに言っていったんですね。この考えが人々に広まっていって、この風習をやる意味がなくなっていきました。
なるほど、人々の考えの変化が衰退に繋がっていったんですね。他にも、カルシッコが衰退した要因はあるんでしょうか?
他には、人口増加で土地を配分しなければいけなくなったことですね。それまで自分たちの土地という意識はすごく曖昧でした。大体の土地の区分はあったけれど、詳しいことはそんなにはっきり決まっているわけじゃなくて。でも人口が増加すると土地を配分しなければならなくなって、それで余った土地は国有林、国の土地ということになりました。そしてカルシッコは家の庭などに移動したのです。
人口増加が文化の衰退に繋がることもあるんですね。他にも要因はありますか?
あと森のことで触れておかないといけないのは、林業ですね。19世紀から現在まで発展が続いてきたフィンランドの林業はカルシッコの衰退にとても影響しています。林業が栄えていくと、どんどん木を伐って木材にしたり、パルプにしたりして経済をまわしてきましたが、一方で死者のカルシッコのような木も伐ってしまったんですね。今でこそ、そういう木は特別だと思いますが、それも伐ってしまいました。
その背景には、どんな考えがあったんでしょうか?
もしかしたら、魔術信仰というか昔の遅れた考えは捨ててしまおうという、文明、近代化に向かおうとする考えもあったかもしれません。これまでの自然と人とのつながりには精神的な部分も大きかったと思いますが、だんだん近代化が進むにつれて森や木への視点がすごく物質的になっていったということがあって、カルシッコもこの流れの中にあったんだろうと思います。
若者がカルシッコを魔術信仰として軽蔑する理由を教えていただけますか。
そこには遅れているという考えがあったからかもしれません。文明国として近代化や産業化を進めていく過程では、カルシッコも遅れた風習だというまなざしが向けられたのかもしれないですね。
でもむしろ最近はリバイバルが起こっていて、キリスト教以前の信仰を現代に復興しようという動きがあります。すごく面白いですよね。時代によって価値観がどんどん変わっていく。
フィンランドでフィールドワークを始めたり、研究を始めたりしたきっかけには何があったんですか?
当時九州にいた私にとって、フィンランドとの付き合いの始まりは2014年から1年間のフィンランドへの留学でした。南にいると北の情報があまり入ってこなくて、周りの人もフィンランドについて何も知らなかったんです。それなら、自分で行って見てこようと思い、フィンランドに行きました。
そこでたくさんの良い出会いがありました。親友もできましたし、ホストファミリーも面倒見が良くて、その家族にフィンランドの文化を教えてもらいました。帰国してからも少しずつ言語を勉強して、2016年にもフィンランドに行きました。その頃にはもうフィンランドの研究を始めていて、迷いはありませんでした。いい出会いをして、もっと彼らのことを知りたい、言語もちゃんと話せるようになりたい、その歴史や文化も知りたい、と思ったので、研究をスタートしました。
いまお話しいただいたカルシッコも文化や伝承だと思うんですけど、伝承は小さい頃からお好きだったんですか?
小さい頃から好きでしたし、サンタさんも長らく信じてました。でも高校生にもなると、嘘だとか思うわけです。それで、その頭のまま大学生になりました。私の大学時代の指導教員は名物先生で、自称、妖精学が専門でした。彼は色んなものが “見える” 人だったんですよね。目に見えているものだけがこの世界じゃないということを教えてくれたのは、この先生でした。やっぱり目に見えない世界を考えるのは好きですね。死者とか、精霊とか。
フィンランドでのフィールドワークで大変だったことや、苦労したことはありますか?
苦労したことは、やはり言語です。言語って文字で見て分かることと、話ができることは、また全然違いますよね。最初は片言のフィンランド語しか話せなくて、なかなか上手くコミュニケーションができませんでした。書いた本にも出ているティモとイーリス(フィールドワーク先で出会ったご家族)と話すとき、ティモは英語ができたので、ティモを介してイーリスと話すという感じでした。でも2019年に留学しながらフィールドワークをして、その時一緒に住んでいたルームメイトたちとフィンランド語を共通語にしようと決めて、だんだん話せるようになりました。それまではティモを介してみんなと話していたけれど、ソリに乗って一人で遊びに行ってお喋りしたりして、言語ができることで行動の幅が広がったと感じましたね。
フィンランドでの生活でどのように困難を乗り越えたのですか?
フィンランドに行くと決めて一番心配したのは寒さだったんです。私は長崎出身なので北の寒さは未知でした。でも行ってみて一番きつかったのは寒さより暗さでした。雪が降る前の11月などは暗闇のなか学校へ行って、暗闇の中帰るという感じでした。ビタミンDを飲んで、太陽が出たときは積極的に外に行って人に会うことを心がけていました。また留学中は日本の人たちと喋ることが心の支えになって、同じ言語と近い感覚で喋れる人が周りにいたことは大きかったと思います。
前編では田中さんのカルシッコの研究や、研究を始めたきっかけ、フィンランドでのフィールドワークについてお聞きしました。後編では田中さん自身の自然や樹木との関わりについて深掘りしていきます。田中さんのお気に入りの木とは……? 後編へ続く!
この記事は、柿本心優さん(法学部1年)、神谷遼さん(総合理系1年)、小林咲月さん(経済学部1年)、中川実優さん(教育学部1年)、平見琢翔さん(総合文系1年)、湯本瑛木さん(総合理系1年)が、一般教育演習「北海道大学の“今”を知る」の履修を通して制作した成果です。