「プレイボール!」
開口一番、大講義室の空気をつんざく大声で、授業に出席していた学生の心をつかんだのは、山崎夏生さん(1979年北大文学部卒業)です。「野球が大好き」の一心でプロ野球審判となり、29年間に一軍公式戦1451試合に出場し、2010年の現役引退後は、日本野球機構(NPB)の審判技術委員として後進の指導に当たっていらっしゃいます。「自分の定めた目標に向かって、前を向いて進め」と熱いメッセージを送ってくださった講義の一部を紹介します。
(著書『プロ野球審判 ジャッジの舞台裏』(北海道新聞社)を手に)
目標達成のため、1日12時間の勉強を課す
小さい時から体が大きく、近所では野球がうまいというので評判の子どもでした。高校では3年間、全試合、全イニングに出ました。しかし、自分の力を試してみたいと受験した東京六大学は、いずれも不合格。浪人中に、ふと受験雑誌を開いて目に入ったのが、北大の大学紹介と寮歌「都ぞ弥生」の歌詞でした。ピーンときました。そうだ、北大へ行こうと。
目標を定めた僕は、2つの誓いを立てました。1つは、本当に北大に行きたいのなら、北大しか受けない。退路を断ち、自分を追い詰めたのです。もう1つは、何があろうとも1日12時間机の前に座ること。
こうして北大に合格することができました。
補欠の経験と決意
北大で野球部に入った僕は、はじめて野球で挫折を味わいました。1年生の春のリーグ戦で、レギュラーに入れなかったのです。補欠にもなれず、ネット裏でスコアつけたり、応援団と一緒に声を出したり。こんなことのために野球部に入ったのじゃないと思いました。
でもそのうちだんだんとわかってきました。野球はグラウンド上の9人だけでやるものではない。部員にはそれぞれ役割があること、みんなの力を合わせて戦うのが野球だということを北大の野球部は教えてくれたのです。この補欠経験はものすごく貴重でした。
2年生になるころ、ベンチに入れるようになり、試合にも出られるようになって、3年生の秋のリーグ戦では、はじめて勝ち投手になりました。ますます野球が楽しくなりました。目標はプロ野球選手になることです。しかし春先の練習中に、右足首を完全骨折。僕の北大野球4年間は終わり、プロ野球選手になることもできませんでした。
僕は野球が好きでしたが、文章を書くことも好きでした。両立できる仕事として思い浮かんだのが、スポーツ新聞の野球担当記者でした。
日刊スポーツ紙に入社。しかし、受けた辞令の配属先は販売局でした。悶々とした気持ちで年月がたち、1981年、日本シリーズを見ていたとき、6人の審判に目が留まりました。その瞬間です。やってみたい、自分にはできると思ったのです。
当時、プロ野球の審判になる方法は3つありました。1つは、元プロ野球選手が球団からの推薦を受けてなる方法。2つめは、アマチュア審判として腕を磨き、連盟からの推薦を得る方法。3つめが公募です。
人生の扉をこじ開ける
僕が決心した年に公募はなく、閉ざされた「扉」を前に考えました。「人生の扉は自動ドアじゃない。自分でこじ開けるしかない」。
当時のパ・リーグ会長のところに、僕をプロ野球の審判にしてくださいと直談判に行きました。案の定、門前払いです。
意気消沈したのですが、気づいたことがありました。僕は「審判になりたいなあ」と思っていただけだったのです。「審判になる」と決断していなかった。次の日、辞表を出して会社を辞めてしまいました。近くのグラウンドで走りこみ、250ページもあるルールブックを丸暗記しました。現役の審判に押しかけ入門して、審判の技術も身につけました。
2か月後、もういちど会長のところに行って訴えました。最後に決め手となるのは情熱です。思いが伝わり、特例としてキャンプに帯同し試してもらえることになりました。
人生の扉がほんの少し開いたのです。1か月間、体当たりしました。そしてキャンプ後、選手と同じ1年契約の統一契約書を会長から渡されました。
神様が与えてくれたプレゼント
8年かかって1軍のレギュラーメンバーになりました。目標達成です。
でも躓きがありました。実は僕はプレッシャーに弱いのです。どうやっても本番で80%の力しか出せない。それならば、どうしたらいいかと考えました。80%で戦うためには、125%の力をつければいい。結論は簡単です。練習するしかない。
あるとき、スポーツ新聞を読んでいた他の審判が話題を振りました。「この新聞紙の幅と、ホームベースの幅と、どっちが広い?」
僕はふと、その新聞を足元におき、球審の構えをして目に力を入れて見たのです。「新聞の幅のほうが2㎝くらい短い」と直感しました。ブルペンからホームベースを借りてきて、比べました。
(これがホームベースの幅、432mmです)
ホームベースの幅が432㎜。スポーツ新聞の幅は410㎜。まさに2㎝短い。
そのとき気がつきました。ある物の幅が400㎜か500㎜かはわかりませんが、ホームベースの幅より長いか短いかはわかるようになっていたのです。これが職人の世界です。たくさんの練習や勉強をこなした者に神様が与えるプレゼントを、僕はもらえたのです。
もうプレッシャーを感じることもなく、自分の力を発揮できるようになりました。
前を向いて、行け
楽しい野球人生でした。でも始まりがあれば終わりがある。55歳定年です。
現役を全うできる審判は、全体の半分もいません。僕が定年まで現役を全うすることができたのはどうしてか、いま技術委員として後進に伝えています。
まず体力です。心技体という言葉がありますが、順番が違う。強い体力からしか強い気力は生まれません。体力と気力が充実していれば、技術は身に着くものです。
もうひとつは、支えてくれる人、応援してくれる人がたくさんいたことです。そして応援される人になるには、ひたむきに努力することが必要です。
3つ目は、情熱です。
人生はよくマラソンにたとえられます。一番大切なのは、順位じゃない、ゴールすることです。みなさんに言いたいのは「前を向いて、行け」、と。自分自身の定めたゴールを目指して、前だけを見つめて、勉強してください。応援しています。
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山崎さん、ありがとうございました。
山崎夏生さんが講義したのは、全学教育科目「大学と社会」です。