綾部時芳さん(先端生命科学研究院 教授)は診療の中で基礎研究を行うフィジシャン・サイエンティストとして、腸と健康に関する医学研究に取り組んでいます。前編では、綾部さんが研究している腸内抗菌ペプチド「αディフェンシン」と、腸内細菌の自然免疫における働きについて紹介しました。
いまではすっかり腸の研究の第一人者となっている綾部さんですが、「初めから腸の研究がしたかった訳ではない」とのこと。後編では、綾部さんが腸の病理学(免疫学)研究を始めるに至った経緯と、現在の目標についてのお話になります。
【張替若菜・CoSTEP修了生 理学院修士2年/橘史子・CoSTEP修了生 農学院修士2年】
医学から病理、腸へ
旭川医科大学医学部を1984年に卒業後、綾部さんは胃や腸の研究につながる消化器内科学講座を選びました。当時の教授であった並木正義教授の患者さんに対する人一倍の熱意と、研究で扱っていたプレパラートの美しさに魅せられたためでした。綾部さんは学部時代からさまざまな研究室に出入りして研究の手伝いをしていましたが、そこには生体組織診断のために切り取られた胃や腸の組織のプレパラートがたくさんあり、綾部さんはそれらに慣れ親しんでいたのです。
病理に目覚めたきっかけは、医学部を卒業して2年後の1986年、免疫学の専門家、片桐一教授との出会いでした。当時の綾部さんには、科学と真摯に向き合う先生の姿が輝いて見えたのだと言います。そのため、綾部さんは大学院医学研究科での研究を片桐一教授の主宰する病理学教室で行いました。
(今でも部屋に飾られている綾部さんと恩師の片桐一教授の写真。綾部さんは写真中央手前右側。左隣に移っているのが片桐教授)
それから北大先端生命科学研究院に来るまでずっと、綾部さんは消化器疾患のフィジシャン・サイエンティストとして研究に取り組んできました。フィジシャン・サイエンティストの大きな強みは、臨床の現場で患者さんを診ることと研究を両立することで、基礎研究のみ行っている人とは異なる目線で研究の方向性を考えられることであるそうです。
2006年に北大に来てからの綾部さんは、自分の研究室(理学部生物科学科高分子機能学)やコース(大学院生命科学院生命融合科学コース)の学生にも、基礎的な研究の強みを持ちながら同時に病気を煩う患者さんに起こっていることを理解できる研究者になってほしいという願いを持ち、ともに研究を行っているということです。
腸からクローン病へ
綾部さんの現在の研究テーマは、31年前の1989年、ある患者さんとの出会いから生まれました。当時8歳だったその患者さんの病気はクローン病、原因不明の免疫系の異常反応によって引き起こされる炎症性腸疾患でした。この病気は処置が遅れると炎症が進み、将来の生活の質に深刻な影響をもたらしてしまいます。早期診断と治療が求められる病気ですが、当時、その診断は非常に難しく、専門に診ることができる病院もほとんどありませんでした。
そうした状況であったため、その患者さんがクローン病であるのではないかという疑いを持った綾部さんは、専門的な診断や治療を手探りで始めました。
それからというもの、綾部さんはクローン病を研究し、最終的には治療法を見つけたいと考えるようになりました。それが、綾部さんの腸の研究の世界へと本格的に足を踏み入れた入り口でした。また、この患者さんをはじめとする多くのクローン病の患者さんとのつながりは現在も続いているとのことです。
最終目標は「健康」の定義
(現在の綾部さんの研究室での様子)
「すべての生き物は腸から生まれる。脳ができる前に腸(原腸)ができる。そして、その後に他の臓器ができてくる。だから、すべての臓器は腸につながっていて、腸は身体の司令塔のような存在だと思うのです」と綾部さんは言います。
綾部さんが現在研究している腸内ペプチドのαディフェンシンは、共生菌を殺さず、身体に悪い菌だけを殺すことで腸内環境を整えています(前編参照)。はじまりの臓器である腸は全身に影響を及ぼすため、腸の状態を大きく変える腸内細菌叢を制御するαディフェンシンは、身体の健康状態を測るための指標にもなるのではないか、と綾部さんは考えています。
病気を治すよりも大切なことは病気にならないこと、健康を維持することですが、現状では健康を定義する指標はありません。そのため、綾部さんは一つの目標として、「人の健康を定義すること」を掲げています。αディフェンシンを用いることで、その第一歩を踏み出せるかもしれません。
また、綾部さんが長年にわたり研究を続けているクローン病について、構造が変化したαディフェンシンが共生菌まで殺してしまい、腸内細菌叢が破壊されることが炎症を引き起こす原因の一つとして挙げられています。αディフェンシンは、健康という側面から見ても、病気という側面から見ても非常に重要な存在なのです。
(「医食同源」を掲げる綾部さん。後ろにずらりと並ぶ専門書の中には綾部さんの著作もある)
αディフェンシンを分泌するパネト細胞は、特定の栄養素に反応してαディフェンシンを分泌することがすでにわかっています。したがって、その分泌は一人一人の身体に合った食べ物を判断する上での指標ともなりえます。食べ物は薬と違い、急激な変化をもたらしませんが、日々の食生活の積み重ねは身体に確実な変化をもたらします。そのようにして、食習慣を積み重ねて作り上げられる健康こそが真の健康であると綾部さんは考えているのです。
ひとつながりのサイエンス
お話を伺う中で、綾部さんが繰り返し仰っていたのが人との出会いの大切さでした。特に、研究を進める上で、様々な選択のきっかけとなった先生方のまぶしさを何度も強調されていました。楽しそうに研究の話をする綾部さんの目は輝いていて、かつて綾部さんが出会ってきた研究者たちもきっとこんな風だったのだろうと、綾部さんの中にその姿を垣間見ることができたように思いました。
「すべてがつながっていると認識し、それを掘り下げていく作業がサイエンスだ」と最後に綾部さんは仰っていましたが、今回の取材を通じて、サイエンスの歴史も、人と人とのつながりでつくられているのだと改めて感じました。