がんは、世界中でたくさんの研究者が立ち向かっていながら、未だ解明されていない部分の多い病気です。これまでの研究により、がんの内部は正常な組織とは異なる環境であることが明らかになっています。特にその中でも、圧縮ストレスが上昇するということが最近になってわかってきました。もし圧縮ストレスに強いがん細胞が現れたら、その細胞はきっとより凶悪ながんとしてはたらくのではないかと考えています。人間の身体の中という小さな世界でのがん細胞のふるまいには、まだ知らないメカニズムが想像もできないほどたくさんあります。昔から生き物に興味を持っていた私は、今、この圧縮ストレスに対抗してがん細胞がどのように生き延びようとしているのかを解明することを目指し研究を行っています。
【安藤奈緒美・生命科学院修士1年】
私が細胞の研究に行き着くまで
私は昔から動物が大好きでした。子供のころ、地元の動物園によく連れて行ってもらい、親に引きはがされるまでずっと動物たちを眺めていました。
動物たちの動く姿を眺めながら、彼らがどうしてそのような行動をとるのか、という”なぜ”が自分の中で湧いてきました。調べてみたところ、外からの刺激を受けると、体の中で神経活動やホルモンの分泌などに変換され、最終的に行動や感情としてアウトプットされるということがわかりました。
では、体を構成する臓器はどのように外からの刺激を認識しているのでしょうか。そしてその臓器を構成する細胞たちはどんなはたらきをしているのでしょうか……。
自分の中に湧いてくる”なぜ”の連鎖をたどっていくうちに、興味はついに細胞の世界に行き着きました。生き物の最小単位である細胞がどういう風に世界を感じ、どのようなメカニズムで応答しているのかについて知りたくなりました。
そこで細胞を扱った研究がしたい、細胞についてもっと知りたいと思い、今の研究室に入りました。
私たちの研究室では主にがん細胞を扱っています。特に、硬さや圧縮ストレスなどの力学的な視点という、少し変わった角度からがんの研究を行っています。
圧縮ストレスとは
がん細胞が受ける環境変化の1つとして圧縮ストレスが挙げられます。限られた環境の中でがん細胞は無限に増殖しようとします。そうすると周りから押される力が発生します。これを圧縮ストレスと呼んでいます。ちょうど満員電車にすし詰めになっているような状態です。
がん細胞の悪性化とは
がんは、普通の細胞の遺伝子にいくつかの傷がつくことで発生した異常な細胞のかたまりです。つまり、どんながんでも、同じがん細胞でできているのではなく、遺伝子的に少しずつ違うがん細胞集団の寄せ集めなのです。
がん細胞が周りの組織を破壊しながら広がっていくことを浸潤、元いた場所から他の臓器に移動することを転移と言います。これらの機能をがん細胞が獲得していくことを悪性化と呼んでいます。
圧縮ストレス下でがん細胞は悪性化するか
がんの内部は、正常な組織とは異なる環境(異常な硬さや低酸素状態など)となっており、そのような環境変化に適応し生き残ろうとする中で、がん細胞は悪性化していくと考えられています。まるで自然界にたまたま適応できた動物たちだけが生き延びていくように、がんの中でも進化のようなことが起きているのです。このことは、がんの治療を困難にしている理由の1つと言えます。
もし圧縮ストレスに強いがん細胞が現れたら?きっとその細胞はより凶悪ながんとしてはたらくのではないのでしょうか。そこで私は、圧縮ストレスによってがん細胞の悪性化が引き起こされるのではないかという仮説をもとに日々研究を進めています。
がん細胞と向き合う日々
朝、研究室に来てまず自分が使用しているがん細胞の様子を見ます。
がん細胞はシャーレの中で飼っています。シャーレ上に接着しているがん細胞に液体培地という、細胞にとってのエサが含まれている液体を入れることで長く飼うことができます。適切に飼わないとがん細胞が死んで実験に使えなくなってしまうので、毎日様子を見に来て慎重に扱います。そのため、だんだんと細胞を飼っているのか細胞に飼われているのかわからなくなりますが、それもまたおもしろいところです。
圧縮ストレスががん細胞の悪性化を引き起こすかどうかを調べるのに、具体的には、がん細胞をゲルの中に埋めておもりをのせることで圧縮ストレスを与えています。ここでは実際の腫瘍でかかるとされている圧縮ストレスの力と同じくらいの力を与えています。
そして、圧縮ストレスを与えた細胞からmRNAなどを回収して分析しています。mRNAはDNAに保存されている遺伝子の情報を転写したもので、いわばタンパク質の設計図のコピーです。mRNAの情報をもとにタンパク質がつくられます。このmRNAなどを分析することで、圧縮ストレスを受けた細胞の中でどのような反応が起きているのか知ることができます。実際、圧縮ストレスを与えられた細胞では、細胞の形が変わったり、特定の遺伝子の発現に変化が起きたりしていることがわかりつつあります。
研究の今後
細胞外からの刺激である圧縮ストレスがどう変換されて細胞内に伝わり、結果として何が起きるのかについては、まだあまりわかっていません。また、圧縮ストレスが結果的にがん細胞の悪性化を引き起こすことが明らかになれば、がんの新しい治療法の開発に役立つかもしれません。
体の中という、身近どころか自身のことでも、解明されていないことはたくさんあります。顕微鏡を使わなければ見えないくらいの小さな世界でも、複雑で緻密で不思議で美しい生命現象が起きています。その一端だけでも私は見たいし知りたいと考えており、それが研究の原動力となっています。これからも、毎日細胞に向き合って研究を続けていきたいと思います。
この記事は、安藤奈緒美さん(生命科学院修士1年)が、大学院共通授業科目「大学院生のためのセルフプロモーションⅠ」の履修を通して制作した作品です。
安藤奈緒美さんの所属研究室はこちら
先端生命科学研究院 細胞ダイナミクス科学研究室(芳賀 永 教授)