あなたが何かしらの経済的な意思決定を行うとき、脳内で一体どのようなことが起きているのか、それを脳科学的手法を用いて解明する学問を神経経済学と言います。経済学などの人文・社会科学の分野と神経科学などの自然科学の分野が融合したこの学問で今一体どんな研究がなされているのでしょうか?神経経済学の中でも「時間割引」という部門について研究されている高橋泰城さんにお話をうかがってきました。
【久保夏樹・工学部2年*、井上清一朗・医学部1年*】
(神経経済学についての話をする高橋さん)
時間割引とは
【例】二択の質問です。今すぐ1個のチョコをもらう選択肢Aと今から1週間後に2個もらう選択肢Bではどちらを選びますか?続けて第二問。10年後に1個のチョコをもらう選択肢Cと10年プラス1週間後に2個もらう選択肢Dでは?
実はこの2つの質問は「10年後」の有無を除けばあとは同じ。忍耐強く待つB派の人はDを選び、あまり待てないA派の人はCを選ぶと考えがちですが、実際には両者が入り乱れた回答も出てきます。一般には、ものの価値に対する主観的な割引率が遠い将来になるほど小さく(待てる)、現在に近づくほど大きくなる(待てない)。神経経済学ではこれを「時間割引」と呼びます。
時間割引の例は他にも、身近なところにたくさん潜んでいます。例えば、「大学に行く」という行為も時間割引に関する行為の一つと言えるでしょう。高校生にとって「大学に行かない」という選択肢は、今すぐ楽しめる時間が得られ(一生懸命勉強する必要がないため)前の話で言うところの「今すぐもらえる一個のチョコ」の選択肢と似たようなものになります。一方「大学に行く」という選択肢は、今すぐには報酬は得られず忍耐が必要になりますが(一生懸命勉強しなければならないため)後に、より大きな報酬を得ることができます。こちらは「一週間後にもらえる二個のチョコ」になりますね。このように考えると、時間によって報酬の価値が割り引かれる速度が低い人が、より教育を受けるだろうと予測できます。実際、調査してみるとそのような傾向になります。
時間によって価値が割り引かれる速度は、実はある程度操作することができます!その例は後半の部分で述べていきましょう。
文理両面からのアプローチ
意思決定や判断という選択行動は、これまで人文・社会科学の分野で主に研究されており、人間の行動(例えば衝動的な行動など)は合理性モデルで説明できると考えられていました。したがって、どうしてそのような合理的な反応が起こせるのか、どういうときに起きないのかということはあまり考えられていませんでした。
しかし、人間の意思決定には、合理モデルでは説明しきれない部分があるということが分かってきており、2000年代に入ってその原因を突き止めるため神経基盤を調べようとする動きが出てきました。まさにそこに目をつけたのが高橋さんでした。
実は理学部出身の高橋さん
現在は北大の文学部人文科学科で研究されていますが、高橋さんは理学部物理学科のご出身で、学部生時代は素粒子物理や生物物理でたんぱく質の構造などを学んでいました。大学院では、高温超伝導などを扱う固体物理の研究室にいました。意外にもこの固体物理と神経科学が結びついていたのです。
というのも、超伝導の理論を創ったレオン・クーパーという人物が超伝導の研究を一通り終えた後に、脳神経系(ニューラルネットワーク)に関する理論の論文を書き始めていました。固体物理の一部の理論は脳の神経回路の分析に使えることが分かってきており、それに付随するデータも取れるようになっていたのです。そこに興味を持った高橋さんは、博士課程から生物物理の研究室に移り、神経科学に近い研究を始めました。当時は空間的な認識や記憶、学習を主に研究されていました。高橋さんが現在も研究されている、意思決定に着目したのはこの頃でした。
高橋さんは、意思決定が起こる生物学的プロセスとその仕組みについて研究されています。難しい決断を迫られている際の時間の知覚の仕方や、時間割引の際に生じる衝動性(小さい報酬でも良いから早く手に入れたいなど)を強めたり弱めたりするホルモンや神経伝達物質の関連遺伝子の特定を行ってきました。意思決定の神経機構に関する研究は、これまで人文・社会科学と自然科学の両方の分野からされてきましたが、高橋さんが目論んだのが神経経済学という新しい学問の領域でした。
未来の価値の感じ方を変える
それでは前の方で挙げた、時間によって価値が割り引かれる速度を変える方法を述べていきましょう。
まず、赤色を見たり、テンポの早い曲を聞いたりすると割り引かれる速度は速くなると言われています。パチンコ店を想像してみると、当てはまっているように思いませんか?もしかしたら、「今すぐの報酬」を欲しくなるようにするために、パチンコ店は進化してきたのかもしれませんね。それに対して、自然の風景の写真を見たり、未来に何か悪いことが起こると思い込んだりする(そうすると、時間を短く感じるようになるため)と割り引かれる速度は遅くなると言われています。山の頂上にいるときと、都会のビル街にいるとき、あなたはどちらの時の方が将来のために頑張ろうと思えますか?
他にも、喫煙者に24時間断煙させると、その人は割引の速さが速くなったり、そもそも動物によって時間割引率が異なっている、などが知られています。スイスの大学では、体にダイレクトに介入して時間割引率が変化しないかを実験していたりと、これからの発展が期待できます。
神経経済学の今後について語る
高橋先生が現在進行中の研究は、意思決定が生物学的な要因によってどのような影響を受けるのかを調査することと、人間の意思決定に近いような判断ができる材料を使ったデバイスの作成です。高橋さんは、ソフトウェア的でない情報処理によって、人間の意思決定の特徴を備えたデバイスが作れると考え、ハードウェア的(物理的な装置のこと)な部分を重要視しつつ、多面的に考えながら、意思決定回路の設計に着手しています。
これらの研究は今後、購買活動などの経済に関することだけでなく、薬物依存の解決など医学的な分野への応用も期待できます。今後の神経経済学の進展に私たちも関心を持ち続けていきたいです。
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この記事は、久保夏樹さん(工学部2年)と井上清一朗さん(医学部1年*)が、一般教育演習「北海道大学の「今」を知る」の履修を通して制作した成果を元にしています(*取材時の所属・学年)