「下水疫学」を用いた新型コロナウイルス感染症収束への道を切り拓いている北島正章さん(北海道大学 大学院工学研究院 准教授)。後編では、下水疫学調査に踏み切った経緯や調査方法の確立までの道のり、そして共同研究によりさらなる発展が期待できる今後の下水疫学の在り方について紹介します。
【後藤若葉・総合理系1年/坂本飛鳥・歯学部1年】
下水疫学とは?
下水疫学(Wastewater-based epidemiology; WBE)は、北島さんの研究グループが新たに生み出した言葉です。地区ごとに下水処理場から下水を採取してウイルスを検出します。そこから得られたデータを基にして地区ごとの感染状況を把握し、感染予防に役立てます。下水疫学に基づいた調査行為を特に「下水疫学調査」ともいいます。
ウイルス由来の感染症が発生すると臨床検査による感染者の把握が行われます。しかし、ウイルスの種類によっては感染しても症状の出ないものもあるため、気づかないうちに感染者が増加することがあります。下水疫学はこの難点を克服する新たな検査インフラとして現在注目されています。症状の有無に関わらず人は排泄を行うのだから、下水にウイルスが含まれていたらその元には感染者がいると推測できます。北島さん曰く「下水は嘘をつかない」のです
どうして下水に目をつけてコロナウイルスの研究を始めたのですか?
東京大学では水中ウイルスなどを研究している研究室に所属し、下水に関わらず上水や川や海の水にいるウイルスを調べていました。中でも下水はウイルスの濃度が高くて検出がしやすいため、研究対象になりやすかったです。学生時代、胃腸炎を起こすノロウイルスなどの研究に取り組んでいく中で、下水中のウイルスを調べ、疫学情報を把握するアイディアが浮かびました。当時は「下水疫学」と呼んでいなかったのですが、この頃から既に下水疫学のコンセプトは頭にありました。
新型コロナウイルス感染症が確認されて最初の2か月間は、このウイルスは呼吸器系に関わるため下水中は見つからないとも思っていました。しかし、アンテナを張り続けて、新型コロナウイルスに関する多くの論文を読んでいました。その中で、新型コロナウイルスが胃腸炎を引き起こすことが報告されており、ウイルスが腸内で増殖することを知ったんです。この時「もしかしたら新型コロナウイルスを下水から検出することができるかもしれない」と思うようになりました。同時に、もともと下水中のウイルスを調べることが得意だったので、自分の技術を使って下水中の新型コロナウイルスを調べ、感染対策に貢献したいと考えるようになりました。引き続き文献を調べていくことで、「下水疫学」で感染状況を把握できることを示した世界初の総説論文へと繋がっていきました。下水からウイルスを検出できることを確認できたので、本格的に調査へと乗り出すことに決めました。
どうして混合物である下水からウイルスを検出できるのですか?
「下水をPCR検査1)するだけだからウイルスは簡単に検出できる」といった感覚を持たれがちなのですが、実際は下水からウイルスを検出することは非常に難しいんです。下水には生活排水や工場排水、雨水など様々な水が入ってきます。それらが混ざり合うことで下水のウイルス濃度は薄まってしまいます。下水処理場で採取できる下水の量も少ないです。さらに、新型コロナウイルスはこれまで僕が研究対象としていたノロウイルスと構造や成分が全く異なっていました。
そのため、研究を進めるためには、これまでウイルスを検出するために用いていた下水の濃縮法が有効かどうかを検証しなければなりませんでした。まずは下水からのウイルスの回収率を調べました。陰電荷膜法などの方法を用いて、条件を変えながらウイルスの回収実験を行い、検出手法の確立に繋がるウイルス濃縮回収率データを取得することに成功したんです。
それでも問題点はまだ残っていました。下水にはさまざまなものが含まれているので、下水を濃縮すると、新型コロナウイルス以外のウイルスも濃縮されてしまいます。そのため、ここからさらに目標となるウイルスだけを検出できるようにする必要があるのです。この過程が実際は相当難しかったんです。どうしたかというと、PCRを用いて濃縮後の下水から取り出したRNA2)の中から新型コロナウイルスのものだけを選択的に濃くして検出しているんです。僕は長年、PCRによる下水中のウイルスの検出に携わっていましたから、PCRは得意分野だったんですよね。現在多くの場所でPCRが普及している理由にも、PCRの選択性と感度の高さが挙げられます。つまり、下水疫学調査で混合物であっても狙ったウイルスだけを検出することができるのは、PCRの選択性が鍵を握っているのです。
塩野義製薬さんとの共同開発についてお聞かせください。
塩野義製薬さんは、下水を使った感染症のモニタリングのアイデアを2年くらい前から持っていました。それを新型コロナウイルスにも応用できるのではないかということで、僕のところに共同研究をしませんか、とコンタクトがあったんです。
製薬会社は、一般に薬を作って販売することで利益を出しています、一方、下水疫学は、病気の検知ですから、製薬ビジネスとは一見かけ離れたプロジェクトに見えます。塩野義製薬さんは感染症に強い社会を作ることを目標の一つにしていて、それは僕にとってもやりたいことだった。それなら、と共同研究を始めました。
製薬と下水って一見かなり遠い分野のようにも見えますけど、いざ共同研究を始めてみると、製薬会社と下水疫学の研究はかなり親和性があって相性が良かったんです。
僕は環境工学を専門とし、下水には詳しいと思っています。一方で、塩野義製薬さんには、ウイルスや遺伝子に詳しい専門家がたくさんいる。下水からウイルスを濃縮できれば、その後の遺伝子工学実験は製薬会社の得意分野でもあります。共同研究の結果、高感度な検出方法を開発し、同社は分析サービスを開始することができています。これだけのスピードで新しい事業を立ち上げることは、普通はなかなかできないですよ。
私たちにとっても、この共同研究があったからこそ、ここまで下水疫学の研究が進みました。企業と大学のお互いにメリットがある共同研究は、結構難しくて、うまくいかない場合も多いのです。今回は最初から向かっている方向が同じだったということもあり、ここまでうまくいっているのかなと思いますね。本当に塩野義製薬さんが声をかけてきてくれてよかったですし、感謝しています。
今後下水疫学の研究を政策に利用して実用化するにはどのようなことが必要ですか?
下水疫学の実用化について、新型コロナウイルスについては技術的には可能です。しかし、現状だと国レベルで利用していこうとする方針がないと、政策的な利用は難しいです。しかし、今いい風向きになってきています。というのも、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会が先日出した提言3)に、下水サーベイランス(感染状況調査)の項目が盛り込まれました。政府が下水サーベイランスをやっていこうと言ったことは、全国各地の自治体で下水疫学調査の導入を進めていくことにもつながります。
一方で、下水を調査して得たデータをどうやって使うかにはまだ課題が残っています。現状、臨床検査である程度流行の上下を捉えることができます。下水疫学調査を行うのであれば、そこに臨床検査とは違う意義を見出さなければいけません。
例えば、下水疫学調査を行うことで、どこの地域に感染者が多いかを割り出して、その地域に重点的に住民を対象としたPCR検査を行うことで隠れた感染者を見つけ出すことはその一つです。また、下水のデータから見て感染者が減ったから自粛を緩めるというデータの使い方ではなくて、下水中のウイルス濃度がまだ高いので無症状者が多い、というように活用することで感染爆発の繰り返しを防ぐこともできるでしょう。一方で、下水からウイルスが検出されなくなったら、感染拡大が収束したという判断をすることも可能になります。
まとめ
インタビューを2回に分けて北島さんの人物像や研究内容・背景に注目して記事をまとめました。それぞれの記事から北島さんの魅力を感じていただけたかと思います。北島さんの研究の実績と最先端の技術を用いた塩野義製薬との共同研究により、下水中のウイルス検出感度は約100倍にもなりました。新型コロナウイルスに対する下水疫学の実用性は飛躍的に向上しました。下水によるコロナの解析を政策などに利用し、実用化するにはまだ課題が残っています。しかし、その実用性は政府にも認められつつあります。下水疫学は今後、感染流行を早期に検知し感染爆発の発生を防ぐための重要な手段となっていくでしょう。今後の研究の発展には、目が離せません。
注・参考文献
- PCR(ポリメラーゼ連鎖反応 Polymerase Chain Reaction):DNA配列の目的とする領域を、一本鎖のプライマー(DNAを複製する時の起点となる短鎖RNAまたはDNA)とポリメラーゼ(DNAやRNAを合成する酵素)を用いて増やしていく操作のこと。
- RNA(リボ核酸):核酸の一種で糖(リボース)・リン酸・塩基からできており、転写や翻訳の過程で重 要な働きをしている。DNAの塩基配列がRNAの塩基配列に写し取られる過程を転写、RNAの塩基配列がアミノ酸配列へと置き換えられる過程を翻訳という。
- 新型コロナウイルス感染症対策分科会 2021:「科学とICTを用いた対策の提言:多くの国民にワクチン接種が行き渡るまでに」(2021年6月16日)
この記事は、後藤若葉さん(総合理系1年)と坂本飛鳥さん(歯学部1年)が、一般教育演習「北海道大学の”今”を知る」の履修を通して制作した成果です。