社会の中の科学を伝える
自己紹介
毎日新聞の科学環境部で記者をしております齋藤有香と申します。毎日新聞を読んだことがある人はいますか。毎日新聞は自由闊達な雰囲気のある新聞社です。
私は北海道大学理学部化学科出身です。この5号館の大講堂でも何度も授業を受けていましたが、たいてい後ろのほうから入ってきて、うとうとしながら授業を聞いているタイプの学生でした。修士1年生のときにCoSTEPのポスターを廊下で見て応募し、1期生として半年間、勉強をしました。修士1年生は就職活動をしますが、私も科学コミュニケーションという時流に乗って就職を決めたような節がありました。記者になろうと思ったことは全く無かったのですが、CoSTEPでラジオ制作に携わった時にお世話になった隈本邦彦先生に教わって、新聞記者になることになりました。駆け出しは千葉県で記者を5年間勤め、その後、本社の社会部を経て、今の科学環境部にいます。
新聞記者とはどのような仕事なのか
千葉県担当記者時代(2007~2012年)
新聞記者とはどのような仕事なのか、少しお話ししたいと思います。まず駆け出しの千葉県の担当のときに書いた記事をいくつか紹介します。地方支局では千葉県の地元ネタや事件、高校野球、政治の取材を担当します。これらを通して記者の基礎を学びます。時間に余裕のある時は、地元の千葉大学で研究者の取材をして、「ひともの」の記事というのですが、人物紹介記事にしました。これ以外は、ほとんど科学技術コミュニケーションとは縁がありませんでした。
例えば、2009年4月にはアフリカハゲコウという鳥が千葉市の動物園から脱走し、それを3日間追いかけ続けるという取材をしました(毎日新聞 2009)。脱走3日後に、やっと捕獲された記事です。また、甲子園に行って高校生と汗をかいた高校野球の記事も担当しました(毎日新聞 2008)。新人記者は地元の高校野球を必ず取材するのです。千葉県政担当時代は森田健作知事の取材をしていました。このような科学技術コミュニケーションとはあまり関係の無い取材を、5年間していました。
東日本大震災を経験(2011年)
そういう中で、2011年に東日本大震災を経験しました。私は当日、親戚の法事があり、東京駅に向かう途中の電車の中で被災しました。そのまま最寄り駅で降りて、東京駅が近かったので、そこまで歩きました。千葉に戻れなくなり、1日、帰宅困難者になりました。手持無沙汰で支局に帰れないと思ったので、そのときの様子・状況を現場で写真を撮りながらルポルタージュして原稿にしました(図2)。
千葉県の浦安市では液状化という地盤が緩くなる被害がありました。そして、1987年の千葉県東方沖地震で液状化した場所と同じ場所で被害があったことが取材で分かりました。液状化が県内で非常に広い範囲で起こったことは過去になかったため、今後、再液状化を前提とした護岸対策が必要だという趣旨の記事を書きました(図3)。このときに取材をした研究者の方から、「今までずっと自分は再液状化の危険性を各方面に訴え続けたが、あまり取り合ってもらえなかった」という発言がありました。それを聞いて、何かが起こってから書くというのは簡単なことであり、平常時にこういった危険性があることを継続して報道していく、警鐘を鳴らし続けることの重要性を感じました。
千葉県内には福島第一原発の事故の影響で線量の高い地域があり、低線量被ばくについて不安を強く感じている市民の方々もいらっしゃいました。そして、「国が国際基準に基づいて設定したしきい値があり、これより低ければ安全だ」と、いくら書いたとしても、市民の安心にはすぐにつながらないということも経験しました。低線量被ばくの影響については、科学者の見解も分かれており、両方の見解を取り上げるしかないということになりました。この時に、科学は必ずしも完璧なものではなく、今分かっていることも実は流動的で、「ここまでは分かっているが、ここからは分からない」ということを、はっきりと報道しなければいけないという必要性を感じました。
科学環境部へ(2012年~)
2012年に満を持して科学環境部へ行きました。新聞社は、政治は政治部、事件は社会部といったように、それぞれ担当する専門があります。科学環境部は再生医療や地震災害、環境問題、最近では研究不正に関する科学分野を専門取材する部署です。私は去年は1年間、文部科学省の担当で宇宙開発や科学技術政策を取材していました。この写真は、去年一旦打ち上げが中止になったイプシロン・ロケットです(図4)。ロケットはあまり役に立たないのではないかと思っていましたが、科学者のロマンに触れて熱く胸を焦がす1年間でした。この他に、日本人で初めて国際宇宙ステーションの船長になった若田光一さんの取材で、カザフスタンのバイコヌールに行きました。この時は、打ち上げのロケットを撮影し損ねて、こっぴどくデスクに怒られてしまいました。
最近だと、文部科学省が所管している理化学研究所が発表したSTAP研究の一連の騒動についても取材をしていました。今年の4月からは、文部科学省を離れて原子力規制庁の取材を担当しています。特に福島第一原発の廃炉への道、目下、汚染水の処理対策に追われていますが、それがどうなっているのかを逐一モニタリングしてチェックしています。あるいは原発の再稼働に関しても、規制庁に取材をしています。
今年の5月には福島原発の構内で取材をしてきました。福島第一原発で話題になっている凍土遮水壁の実証実験を視察しました。凍土遮水壁は原子炉建屋1号機から4号機の周りを氷の壁で覆って、地下水がそれ以上建屋に流入するのを防ぎ、増え続けている汚染水を減らすための対策です。構内は放射線量が高いので、タイベックという全身を覆うつなぎを着て取材しました。
社会の中の科学
まだ科学環境部に来て2年と少しなので、科学技術コミュニケーションを語るのもいかがなものかと思いますが、私なりに記事を書くときに大事にしていることがあります。研究成果が読者の生活に、どのような影響を与えるか、どのようなリスクがあるかを意識して書いています。例えば基礎研究に携わっている方が、「こんな研究成果があります」と紹介してくださるアピールポイントと、読者にとってのポイントがずれていると感じることが多くあります。記事には、本文の前に大きな文字で書いてある見出しがあって、記事の意義付けを意識しながら書いています。また、自分は取材相手の下請けをしているのではなく、批判的な見方を忘れないように書く、ということも大事にしています。
もう一つ言いたい事は、東日本大震災の前後で科学報道に対する注目度が、少なくとも社内では大きく変わったことです。それまでは、どちらかといえば科学環境部の出稿は「こんなおもしろい研究成果がある」とか、いわゆる「暇ネタ」的な扱いを受けることも多かったのです。それが震災の後になると、科学の知識の部分を非常に大事にされるようになって、科学環境部の出稿を積極的に求められたり、「これはどうなっているのか」と見解を聞かれる、頼られることが、社会部や政治部など他の部署からも多くなったと思います。それだけ科学が生活と密接に関わっているということを、たくさんの人が認識するようになったと思っています。
コミュニケーションが大事
いろいろ述べた後に飛躍してしまいますが、最終的にはやはりコミュニケーションが大事だと思います。特に新聞記者は批判的な記事を書くことが多くあります。しかし、例え批判しても、取材先との関係をつなげられるように人間関係を普段から作っておく必要を痛感しています。多角的な視点の記事を書くためにも、人とのつながりは非常に大事だと思います。これからも、いろいろな分野のたくさんの方々との出会いを大事にしていきたいと思っています。
謝辞
科学技術コミュニケーションに深く携わるきっかけを与えて下さったCoSTEPの職員の方々や、共に学び刺激を与えて下さった受講生の方々に、心より感謝申し上げます。
文献
毎日新聞 2008:「 奮戦安房に拍手 大歓声」2008年3月28日付朝刊 千葉県版
毎日新聞 2009:「 脱走3日疲れました 『ハゲコウ』大トリ物」2009年4月6日付朝刊
毎日新聞 2011A:「 震災一カ月 千葉では(中) 一極集中危うさ実感」2011年4月13日付朝刊 千葉県版
毎日新聞 2011B:「 千葉で広域再液状化 87年も被害 砂地盤にゆるみ」2011年6月9日付夕刊