「正当にこわがる」/「正しく恐れる」
おそらく、多くの方は、前者ではなく後者をより多く耳にされているだろう。この言葉は、3.11以後、「科学的な知見に依拠して恐れるべきものは恐れ、そうでないものを不必要に恐れることはやめましょう」というニュアンスで使われている。そして、この言葉が紹介されるとき、物理学者にして随筆家としても名高い寺田寅彦によるものだ、との但し書きが加えられることが通例である。
しかし、何人かの論者が指摘しているように、寺田自身が用いた言葉は微妙に異なっていて、それが「正当にこわがる」である。オリジナルは、「小爆発二件」と題されたエッセーに登場する。
今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。…(略)…「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。
駅員が示した「おごそかな表情」がポイントだ。「おごそか」は、厳粛なさま、心が引きしまる様子である。仮に、学生がこわがらな過ぎるとして、駅員はこわがり過ぎているとして対照されているだろうか。そうは思えない。それならば、「ひどく驚いた表情で」とか、「びくびくして」とか表現されるはずである。
「おごそか」は、「こわがる」が、自然(火山噴火)に対する「恐れ」というよりも「畏れ」を表現していると見るべきだろう。また、「正しく」ならぬ「正当に」は、科学的な基準に照らした場合の「正しさ」を表示しているのではなくて、畏れることの「正当性」や「権利」を意味していると解釈すべきである。そもそも、現代社会とは、「正しさ」が大きく揺らいでいる「リスク社会」だとの認識もここでの議論を後押しするものだ。
その意味で、「正しく恐れる」は、「正当にこわがる」の真意を逸しているし、ポスト3.11にとってふさわしい導きの糸とはなりえないように思われる。これは、科学技術コミュニケーションにフォーカスするCoSTEPにとっても、看過できない論点の一つであろう。