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鹿の

2020.7.29

著者: 上橋 菜穂子
出版社: 角川書店
刊行年月日: (上・下)2015年4月10日 (水底の橋)2019年4月15日
定価: 各1,600円(税別)


小さな存在が繰り広げる壮大な物語

様々な文化をもつ人々で構成されるこの世界には、どうしても分断が生じてしまう。しかしそれを超えて、物語は多様な人々をつないでいる。誰もが主人公と一体化し、感情を共有できる。文化人類学者でもある著者の上橋氏は、オーストラリア先住民族のアボリジニと長く共に暮らす中で、多文化共生についてそう考えるようになった。上橋氏が描く、人々を結びつける物語。その一つが、この『鹿の王』である。

物語は、 謎の病の発症からはじまる。

ヴァン。かつて彼は鹿の背に乗って山野を駆ける戦士の頭だった。今は岩塩鉱の暗い坑道で重労働をさせられている。彼の故郷を守るため強大な帝国、東乎瑠(ツオル)と戦ったものの圧倒的な戦力に仲間たちは倒れ、一人だけ生き残ったのだ。そんな彼が囚われた岩塩鉱を、ある夜突然、奇妙な犬の群れが襲撃する。襲われた人々は皆、謎の病にかかり、数日のうちに死んでしまった。しかし、ヴァンだけはまた、生き残った。ある希望と共に。

もう一人の男、ホッサル。彼は謎の病の解明に向け東乎瑠に派遣された医師だ。ホッサルは高名だったが、恐れられ、嫌われてもいた。というのも、彼は東乎瑠に吸収された古オタワル王国の始祖の血をひいており、オタワル独自の異端ともいえる医療技術をもっていたのである。東乎瑠は多様な民族、国が吸収されそれぞれの思惑が入り混じって複雑な状況にあった。しかしそんな中、彼は分け隔てなく民の命を救おうと奔走する。

この二人の主人公を結びつけたのは、謎の病、我々の世界の言葉で言えば伝染病である。オタワルの医師たちも、人間の身体のなかには様々な微生物がすみ、命を支えていることを発見した。このことをホッサルは「実に愉快な発見であった。」という。彼らオタワル人は強大な帝国に吸収された後も、その国を支える一部として強かに生きているのである。国と人という関係が人と微生物の関係と似ていると彼は言っているのだ。

ホッサルの助手の医師は、生死についてこう語る。

「ひとつの個体に見えるけど、実際には、びっくりするほどたくさんの小さな命がこの身体の中にいて、私たちを生かしながら、自分たちも生きていて……私たちの身体が病んだり、老いたりして死んでいくと土に還ったり、他の生き物の中に入ったりして命を繋いでいく。そう思うとね、身体の死って、変化でしかないような気がしちゃうんです。まとまっていた個体が、ばらっと解散しただけ、のような」

しかし、家族を失い、戦場でもただ一人生き残り孤独に生きてきたヴァンはその考えを認めつつも言った。

「それでも故国が消えることは―この世に生まれた、たったひとつの形である私が消えることは―哀しいものですよ」

俯瞰的な視点から見た命と、自分という一人間の視点から見た命。描かれる人々にはそれぞれの背景があり、皆自分なりの正義を持って行動している。その人物たちの口から語られるからこそ、発せられる言葉にはより力がある。 ホッサルが言うように、身体は国に似ているが、私たちは自分の身体の中のことも、自分がその一部である大きな生命体―国―のことも、直接全体を見回すことはできず、多くを知らずにいる。しかし私は、小さな存在が懸命に命を繋ぎ、 作り上げている壮大な世界の姿を垣間見ることができた。これこそ上橋氏の物語がもつ力の真髄であろう。


関連図書

  • 『物語と歩いてきた道 インタビュー・スピーチ&エッセイ集』上橋 菜穂子 著(偕成社 2017)

本書評冒頭で記した上橋氏の物語と共生に関する思想は、このエッセイ集から読み取ることができる。そのほかにもクスッと笑える上橋氏の学生時代の逸話、『守り人シリーズ』の生まれたきっかけなど、貴重な情報を得られる。上橋作品を読み解く上では必読の書。

  • 『獣の奏者(1~4/外伝)』上橋 菜穂子 著(講談社 2006~2009/2010)

生物への深い愛をもち、人と獣の間の架け橋となる主人公エリン。しかし彼女の生物への敬愛からうまれた発見によって、王国は大きく揺れ動いてしまう。愛する人々、生物たちとともに彼女が歩んだ人生とは…。

  • 『共生という生き方 微生物がもたらす進化の潮流』トム・ウェイクフォード 著、遠藤 圭子 訳(シュプリンガー・フェアラーク東京 2006)

バクテリアの発する幻想的な光を宿すミミイカ、巣の中で菌類畑を育てるハキリアリ…。生物は過酷な競争を生き抜くために、様々な微生物と手を取り合ってきた。実は微生物は私たち人間の大切な仲間でもあったのだ。


五藤 花(CoSTEP16期本科ライティング・編集実習)