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ヒルビリーエレジー アメリカ繁栄から取り残された白人たち

2020.8.1

著者: J.D. ヴァンス
訳者: 関根 光宏・山田 文
出版社: 光文社
刊行年月日: 2017年5月25日
定価: 1,800円(税別)

貧困の生存者が語る、白人労働者階級の世界

『ヒルビリー・エレジー』は、J.D.ヴァンスという、アメリカ・オハイオ州出身の「白人」男性の自伝である。幼少期から、オハイオ州立大学、イエール大学のロースクールを出るまでの人生が描かれている。こういうと、ただのエリートの自伝に聞こえるかもしれない。しかし、本著が注目を浴びたわけは、筆者の出自にあるといっても過言ではない。筆者は「白人」といっても、いわゆるアメリカ北東部の「WASP (ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」ではなく、「スコッツ=アイリッシュ」系で、「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首筋が赤く日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」などと呼ばれる労働者階層の出身者だからだ。

ヴァンスは、オハイオ州の錆びれた町で育つ。貧困、アルコール、薬物、両親の離婚であふれ、周囲で大学を卒業する人はほぼいなかった。そんな彼の不安定な人生の中でも一役買っているのは、何度も結婚と離婚を繰り返す、情緒不安定な母親である。

「ボブは母の3番目の夫だったが、三度目の正直というわけにはいかなかった。」(p.119)

せっかく結婚しても、その数週間後には両親のけんかが家中に鳴り響く。

「家具が揺さぶられる音に、どしどし響く足音、叫び声、ときにはガラスが砕ける音。」(p.122)

挙句の果てには、薬物依存症になり、ヴァンスに助けを求めるようにもなる。

「母は当然の権利といわんばかりに、私に高圧的に尿を渡せと言った。」(p.208)

母親の精神不安定度が増すと同時に、ヴァンスは居場所を失っていく。そしてその影響は、肥満や体調不良、学校の成績の低下という目に見える形で現れ始める。高校落第の危機に瀕するが、祖母の助けを得て何とか乗り切る。

そんな子供時代を過ごすも、ヴァンスは海軍入隊後、どういうわけか、オハイオ州立大学、そしてイエールのロースクールを卒業し、上流階層の仲間入りを果たすのである。なぜそれが可能だったのだろうか。運が良かったからか、地頭が良かったからか、はたまた別の要因があるのだろうか。本書はそれを解き明かすヒントをくれる。

一方で、忘れてはならないのは、彼の周りには「繁栄から取り残された」ヒルビリーがたくさんいるということだ。「なぜヴァンスは成功できたのか」を問うと同時に、「なぜ彼らは取り残されたのか」という点にも目を向けなければならない。

ヴァンスは、自身の人生をこう振り返る。「私が最悪の状態に陥りそうになったとき(本当にその寸前までいった)、その原因は、政府機関ではどうすることもできないものばかりだった。」(p.378) 白人の労働者階層には、自分たちの問題を政府や社会に押し付け、自分自身の行動には目を向けない傾向があるという。例えば、そこそこの賃金が得られる仕事であったとしても、無断欠席や遅刻、辞職する者たちがいる。また、ヒルビリーには、学校で良い成績を取ることを「女々しい」とする考えが根付いている。これらは、ヒルビリーの抱える問題は、「家族、信仰、文化がからむ複雑なもの」(p.367)であり、政府からの一方的な支援では限界があることを示唆している。

ヒルビリーの視点に立てば、現在世界中で繰り広げられている、黒人の人権を訴える、“Black Lives Matter”運動に対して、白人保守層が“All Lives Matter”と言いたくなる気持ちもわからなくはない。ヴァンスの半生によって示されているように、貧困や不安定な家庭環境が人生に及ぼす悪影響は我々の想像を超えるものである。しかしながら、米国の2018年の貧困率は、白人が10.1%であるのに対し、黒人は20.8%であり1)、人種によって異なっている。貧困が世代間で連鎖していくことを踏まえれば、黒人の方がより社会的に不利な状況に置かれる可能性が高いといえるだろう。もしヴァンスが、黒人で、女性で、あるいはその他のマイノリティに属していたら、同じような成功を手にすることはできたと言えるだろうか。

わからない。

2016年、本著作は、「トランプの勝利を理解するための6冊」のうちの一冊としてニューヨーク・タイムズで取り上げられた。それから4年が経った現在も、上流階層の仲間入りを果たした一人のヒルビリーの自伝は、上からの調査だけでは掴み切れない貧困問題の実態、ひいては複雑なアメリカ社会を理解するための一冊として外せない。

参考文献: 

  1. U.S. Census Bureau, 2019, “Income and Poverty in the United States: 2018” https://www.census.gov/library/publications/2019/demo/p60-266.html  (最終閲覧日: 2020年7月8日)

関連図書

  • 『われらの子ども』ロバート・D・パットナム著 柴内 康文 訳 (創元社 2017)

アメリカには、社会的な成功を収める機会はどのような人にも開かれており、自分たちの努力次第で何でも手に入れることができるという考えが根付いている。しかし、そのような「アメリカンドリーム」と呼ばれる理想は、アメリカの現状と一致していない。近年は、格差の拡大により、裕福な家庭の子どもたちは、教育を始めとする質の良い資源が得られ、社会的な成功が収めやすくなっている。一方で、下層階級の子どもたちにはそれらが得られず、社会移動の道がふさがれつつあるという危機的なアメリカ社会の現状が描かれている。

  • 『幼児教育の経済学』ジェームズ・ヘックマン 古草 秀子 訳(東洋経済新報社 2015)

「非認知能力」とは、肉体的・精神的健康や、根気強さ、注意深さ、意欲、自信といった社会的・情緒的性質を含んだ、テストなどでは測ることのできない能力である。ノーベル経済学賞を受賞した著者は、社会的な成功において、IQの他にも「非認知能力」が大きな役割を果たしていることを追跡調査によって明らかにする。また、特にこれは、幼少期に発達することから、機会の格差を縮小する手段として、就学前の幼児教育への共益投資の重要性をうったえている。


寺本 えりか(CoSTEP16期本科 ライティング・編集実習)