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ES細胞の最前線

2010.6.29

著者:クリストファー・T・スコット 著

出版社:20060800

刊行年月:2006年8月

定価:2520円


 生物のからだを作っている様々な細胞も,おおもとは一つの細胞,受精卵である。その受精卵が細胞分裂を始めてまもない時期に,受精卵の内側にある細胞塊と呼ばれる部分を取り出し,特殊な条件のもとで培養することで,胚性幹細胞(ES細胞)と呼ばれる細胞集団を作り出すことができる。これは,理論上,あらゆる組織に分化する能力を持った細胞であり,「万能細胞」と呼ばれることもある。

 

 

 そのES細胞がいま,いろいろな意味で社会的な注目を集めている。たとえば,糖尿病や骨髄性白血病,パーキンソン病,ALS(筋萎縮性側索硬化症)などを治療するための,ヒトの移植再生医療に応用できるのではないかと期待されている。あるいは,患者の皮膚細胞から採取した核を,核を取り除いた未受精卵に移植してヒトクローン胚を作成したというニュースがある。そうかと思えば,その研究は捏造だったというニュースもある。ES細胞の研究はいま,混沌たる状況におかれているのだ。

 

 

 こうしたES細胞の研究について,その全体像をバランスよく,しかも正確に俯瞰した一般読者向けの書籍を見つけ出すことは非常に難しかった。その点で,本書は貴重である。ジャーナリストとしての経験も豊富な科学者クリストファー・スコットが,「細胞とは何か」という自然科学上の基本的なところから,韓国における論文捏造スキャンダルのような社会的問題にいたるまでの,ES細胞を含む幹細胞研究のさまざまな側面を,懇切丁寧に書き下ろした意欲作である。

 

 

 この本の原題は”Stem Cell Now”,直訳すれば「幹細胞の今」となる。書名が示すように,著者は,受精卵を使って得られる胚性幹細胞についての研究だけでなく,受精卵を使わない「体性幹細胞」についての研究も紹介している。この点も,本書の大きな特徴である。

 

 

 今まで,胚性幹細胞に比べて体性幹細胞はあまり注目されなかった。体性幹細胞は,胚性幹細胞ほどには柔軟に,さまざまな組織に分化しないという,生物学者の一致した「定説」があったからである。しかし最近の研究では体性幹細胞からES細胞に類似した性質をもつ細胞をつくり出すことに成功している。そして体性幹細胞では,成人女性から卵子を調達するという,胚性幹細胞についてまわる生命倫理上の問題を避けることもできる。

 

 

 本書は幹細胞についての研究をバランスよく俯瞰した本である。とはいえ,読者にとって,著者の立ち位置は気になるものだ。著者のスコットは,幹細胞研究については積極的に推進の立場であることを,第一章「世界に衝撃を与えた実験」の章末で表明している。その一方で,第八章「倫理論争」や第九章「政策とその影響」などでは,反対あるいは慎重な立場の議論を紹介するためにも充分なページを割いている。そうすることで,一方向からの見方に偏らないような配慮を心がけている。

 

 

 アメリカのブッシュ大統領は,カトリック系の宗教団体を支持基盤にもつこともあって,幹細胞研究にブレーキをかけている。このように,幹細胞研究は政治とも無関係ではない。スコットはこうした点にも言及している。また,韓国における「初のヒトES細胞株樹立」という論文捏造スキャンダルなど,比較的最近の話題もとりあげている。

 

 

 胚性幹細胞をはじめとする,さまざまな幹細胞研究の動向を知るうえで,本書は一般読者の大きな助けになることだろう。幹細胞研究をめぐる問題については,科学者に議論を委ねるのではなく,広く市民も率直に意見を表明することが求められている。「良識ある市民の考え」を,例えばこの本をたたき台にして積み上げていきたい。

 

 

立花浩司(2006年度CoSTEP選科生,千葉県)