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【2021年度CoSTEP修了式】ソロモン諸島戦跡によりそう人々

2022.3.12

戦跡:過去と現在と未来をつなぐ場

(ガダルカナル島レッドビーチに残る米軍の水陸両用車LVT-1)

ガダルカナル島。そう述べた方がピンとくるかもしれない。ソロモン諸島は、第二次世界大戦で日本軍が凄惨な敗戦を喫した戦場の数々がある南太平洋の島国で、「ガダルカナルの戦い」(1942年6月〜1943年2月)は特に有名である。2019年6月、私は、その戦いのきっかけとなったヘンダーソン空港(現在はホニアラ国際空港)に到着し、2年間、現地で働く機会をいただいた。そして、その傍ら、様々な戦跡を訪れることができた。

 

今、私はCoSTEP Reportにルポを掲載することを目標に、出会った人々の声と戦跡の記録を整理してしている。科学技術コミュニケーションと戦跡は一見関係がないように思えるが、近代の戦争はその時代の科学技術の表象であるといえるし、時が過ぎ、歴史となっていく戦争をどう未来につなげるかは、コミュニケーションの問題でもある。そこで私は、そうした戦跡によりそう人々がどのようなことを思って関与してくれているのかが、ソロモン諸島で太平洋戦争の歴史をつなぐヒントになると考えている。

本稿では、現地で撮影した写真や動画の中から、各地に点在する戦争博物館や海にたたずむ戦争遺産の一部を紹介する。昨今、戦争が遠いものでなくなってしまったからこそ、なにか感じるものがあれば幸いである。なお、ルポでは戦地の現在や慰霊碑などにも言及する予定である。今回、紹介できなかった資料は以下のGoogle Mapにまとめた。内容は随時更新していくが、もし関心があれば、位置の確認も含めて参考になれば嬉しい。
(Google Map上に記録したソロモン諸島戦争遺産。確認できるものについて、戦争残存物(戦車・戦闘機・不発弾等)5件、遺構(防空壕・物見櫓等)6件、博物館8件、慰霊碑・祈念碑17件にわけて記録した)

現地の人々が遺す戦争博物館

(金属プレートが剥がされた慰霊碑。ツラギ島にて)

ソロモン諸島では、80年近く前、ガダルカナル島の戦いだけでなく、フロリダ諸島、ニュージョージア諸島、ブーゲンビル島と広範囲にわたり、激戦が行われた。そのため、各地に戦争遺産ともいえる戦車や兵器の残骸などが多く残されていたが、その後、民族紛争や貧しい生活から、歴史的価値がある戦跡や慰霊碑であっても鉄類が剥がされて鉄屑として売られたりしまうことがあった。そんな中でも、コミュニティーや個人ベースで、戦時の銃器や遺留品といった小さなものから戦車や航空機といった大きなものまで、様々なものを収集し、現在まで残してくれている人々がいる。そして、そうしてできた場所が戦争博物館となり各地に点在している。ここでは、ガダルカナル島内にあるビル戦争博物館とルンガ戦争博物館およびロベ戦争博物館、そして、ニュージョージア諸島・ムンダにあるピーター・ジョセフ戦争博物館を紹介する。

ビル戦争博物館

(案内をしてくれるシルビアさん(手前))

首都ホニアラから西に40分ほど車で走った場所にある現地コミュニティーが管理する野外の博物館。大阪工廠と書かれた野砲や零戦のエンジンのほかに、連合国側の戦闘機が複数、当時の姿のまま展示されている。5,6回訪問したが、いつも笑顔が素敵なシルビアさんが迎えてくれた。私のお気に入りは米海軍の艦上戦闘機F4Fワイルドキャット。圧倒的に状態がよく、両翼は今なお折りたたむことができた。

 

(フィジー人の戦没者慰霊碑)

コロナ前はいつも館内の芝は刈られていたが、最後に行った2021年4月は全体的に草が生い茂り、米海軍の艦上爆撃機SBD ドーントレスの翼が巨木に横たわっていた区画が立ち入れなくなっていた。観光客が来ないため整備していないようで、シルビアさんが「きっと神様が少し休みなさいといっているんだね」と語っていたのが印象的だった。この時は、5つある碑のうち、フィジー人の戦没者慰霊碑に紫色のリースが手向けられていた(他の慰霊碑は日、米、豪、NZ)。

 

ルンガ戦争博物館・ロベ戦争博物館

(修復中の一式陸攻。写真はヨゲシュ氏提供)

ソロモンで石油関係の仕事を営む兄カート・マークワースさんと弟ヨゲシュさんが運営するふたつの博物館。ソロモン国立博物館と提携し、数多くの航空機の修復等も行っている。ルンガ戦争博物館は、主にヨゲシュさんが取り組む一式陸攻再生プロジェクトを中心とした作業場でもある。また、零戦も3機あり、ほかにもオーストラリアに修復のために送っているものもあるという。将来、ホニアラ国際空港側にある公園に展示したいと構想を語っていた。

 

 

 

ロベ戦争博物館はマークワース一家の住居に併設。ソロモン人が戦争の残存物(銃器等)を売りにくるらしく未整理のものが多く溢れていた。ガイドのフランシスさんに促されて日本軍の銃剣を持った。非常に重く、これを持ってジャングルを移動したのかと驚いたと共に、銃口が米軍の兵士にも向けられたと思うと、それ以上思いを巡らすことができなくなった。他にも、肌見放さす持っていたであろう女性が写った小さな写真や、軍事秘密と書かれた通信機、名前が書かれた日の丸旗などがあった。

ピーター・ジョセフ戦争博物館

ガダルカナル島の戦いの次の戦いの舞台であるニュージョージア諸島・ムンダ。奥まった民家の敷地内にバーニー・ポールセンさんが営む私設博物館がある。小屋に所狭しと敷き詰められていた収集品が、ここでも激しい戦いが繰り広げられていたことを実感させてくれた。ポールセンさんはオーストラリアから供与された金属探知機を保有し、コミュニティーの人々が家屋を建てる際に不発弾が埋まっていないか調査を行っているという。展示物にはその過程で見つかったものも多い。博物館の名前の由来は、同地で見つけたネームタグの持ち主の名前で、その後、奇跡的に米国に住む遺族と連絡を取ることができたという。ネームタグの束を見せていれたが、米軍のものは記名されているのに対して、日本軍は所属だけだったのが当時の両国の文化の違いを考えさせられた。

海中に眠る戦争遺産

ソロモン諸島での戦いでは、陸戦を支援するための補給線を巡って、日本軍と連合軍の間で多くの海戦が行われた。よって、多くの軍艦や航空機が水面の下に眠っている。多くは潜水器具を要する深さに沈んでいるが、ここでは船上から(一部素潜りで)対面できる戦跡を紹介する。駆逐艦菊月・米軍輸送船 ・鬼怒川丸はGoogle Mapの衛星写真でもその影を確認できる。

駆逐艦菊月・米軍輸送船

ソロモン諸島で一番好きな光景は、湖のように穏やかな内海とその海に色を写す空、そしてその境目に浮かぶフロリダ諸島の島陰である。そのフロリダ諸島にあるTokyo Bayと呼ばれるエリアには、水上に姿を表す唯一の駆逐艦とされる菊月と米軍輸送船が残っている。英国保護領時代の首都でもあったツラギ島からボートで訪問できる。双方ともに沈没した場所から戦後に現在の場所に移動されたとツアー会社Tulagi Tours & Travelを経営するリチャードさんが説明してくれた。菊月は全長100m程で船首と船尾、砲台がかろうじて水面から顔を覗かせていた。米軍輸送艦は日本の攻撃で沈没したもの。他の本で人が看板に乗っている写真をみたことがあり、リチャードさんに尋ねてみると大丈夫と許しがでて、少し搭乗した。日本の攻撃で沈んだ船であり、亡くなった命もあったと思うと褒められた行為ではないかもしれないが、この船で戦争に携わっていた人の息遣いが感じられた気がした。黙祷することしかできなかった。
(米軍の輸送艦)

鬼怒川丸

鬼怒川丸は、1943年11月、第38師団を輸送するためにの船団を組んだ11隻のうち、激しい攻撃に沈没せずになんとか浅瀬に乗り上げた4隻の一つ。しかし、揚陸作業中も制空権を抑えていた米軍航空部隊の攻撃にさらされ、事実上輸送計画は失敗に終わったという。ある意味、補給線の確保に苦心したガダルカナル島の戦いを象徴する場所であった。海を潜ると、80年近く経ってなお船の側面部は原型を保ち、荒波を和らげている。甲板や船の影は多様な珊瑚礁や魚の住処になっていた。

96式陸攻

ガダルカナル島を撤退した日本海軍が反撃の拠点として築いたムンダ飛行場。その側の海の浅瀬に日本の爆撃機が沈んでいると聞き、ソロモン諸島を離れる前に訪れた。宿泊した簡易宿で働くジュニアさんに水先案内してもらい、ここだというので潜ると突然、航空機の頭が現れた。海底が砂地のため、水中の透明度は高くなく、それがかえって畏怖の念をかき立てる。近づくとコクピットは以外に小さい。水深は5mほど。両翼のエンジンには珊瑚礁が発達し、小魚が舞っていた。もっと観察したかったが、体力的に長くいれる場所ではなく、それでも出会えてよかったと思えた場所であった。

まとめ:人々の声を残したい

ソロモン諸島では、戦跡に対して、日本でいう管理や活用という概念は希薄で、あるがまま放置されているのが主流である。そのため、一言断りさえいれれば、触れさせてもらうこともできた。促されて銃を持った瞬間、沈没船の甲板に載せてもらった瞬間、そして、戦跡ではないが、ご遺骨に触れてお祈りした瞬間、タイムトリップしたように情景が浮かび、また、その凄惨さから脳がストップがかかったような経験をした。これらは負の側面があるとはいえ、他国に残してきた過去を学ぶ財産であると思う。一方で、そうした戦争遺産や戦跡のそばには、勝手に持ち込まれた戦争の遺物にもかかわらず、そこから学び、伝えようとしてくれるソロモンの人々がいた。ルポでは、そうした戦跡によりそう人々の声をできるだけまとめたいと思う。
そして、こうした現地の人々に言及する際に避けて通れないのが、ソロモン人は日本のことをどう思っているかということである。この点に関しては非常に親日的であった。では何故かというと、様々な要素があるとはいえ、ソロモンでの日系企業の長年の活躍や外務省・JICAで活動してきた歴代の方々の取り組みが評価されているのではと思う。しかし現在、仕事のない若年層の問題、中国との国交樹立等の影響でソロモン社会はより不安定化し、今まで両国の架け橋となっていたJICA海外協力隊や遺骨収集団もコロナで現地渡航できないでいる。そして、実は昨年、不発弾が爆発しソロモン人の死傷者も出てしまっている。こうした現状からも、これからもソロモンとの関係を考える必要がある思う。そして、日本が深く関与した戦争で残されたものによりそってくれている人々がいることを伝えるためにもルポでは現場で感じたこと、人々の声をできるだけ残せたらと考えている。時間も経過していくためルポの完成に向けて、引き続き努力したい。
(慰霊碑の清掃をするフランシスさん。エスペランス岬にて)