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しなやかに問いかける

2020.4.2

碓井 ゆい《「ガラスの中で」》(2019)

名古屋市美術館内に入ると、碓井 ゆいの《「ガラスの中で」》という作品が最初に目に入ります。館内のロビーは地下1階から2階まで吹き抜けになっています。1階から入り、細い空中回廊をわたると、白い大理石で囲まれた吹き抜けの展示室があり、自然光を優しく反射した空間にその作品は存在します。

吹き抜けの展示室の上部から、アクリル枠がいくつも吊り下がっており、シャーレのような形をしたその枠にはオーガンジーの布が張られています。そこに自然光が差し込む姿が、白い大理石の空間と相まって、とても繊細で綺麗だな、というのが第一印象でした。上を見上げて作品をみると、その作品には、くまやリンゴや乳母車、注射器といったモチーフのアップリケが施されています。そしてそれらのモチーフは、どれも線対称に対になってふたつ並んでいます。作品のキャプションは次のように書かれています。

(作品の一部を下から見上げると、天井の窓から光が降り注ぐ空間に、シャーレのような円形にある刺繍の作品が並ぶ)

(抜粋)作家はこれまで女性と労働といったテーマを刺繍や影を用いて表現してきました。本作は作家自身の妊娠を機に、生命という新たなテーマに踏み込んだものです。刺繍の内容は乳児や家族に関連するモチーフが描かれ、その多くは染色体の構造にならい、左右対称で二つひと組みとなっています。

 英語タイトルの「in vitro」とは、生物学の分野で試験管内などの人工的な環境を意味します。科学の進歩と共に、生命の誕生にまつわる神秘も徐々に解明されてきています。同時に人の価値判断や倫理についても、これまで考えずに済んでいた領域へと進歩させる必要も出てきています。

(刺繍の内容は乳児や家族に関連するモチーフが、染色体の構図にならい二つ人組で並ぶ)

作品の単純な可愛らしさとは対照的に、“ジェンダー”や“生命倫理”といったメッセージが込められているようですが、一見すると、作品とキャプションが結びつきませんでした。そのギャップ埋めるために、作者の過去のインタビューや他の作品をもとに、前述の二つキーワードについて考察したいと思います。

作品で取り扱うジェンダーについて

碓井が用いる手芸や裁縫はという手法は、近代化の過程の女子教育に通ずるものとして、「女性的」なイメージをもたらします。作者自身がひとりの女性という立ち位置から、資本主義社会における「女性と労働」の問題を問うているのが、作者の代表的な作品である《shadow work》であり、《「ガラスの中で」》もそのシリーズのひとつです。「シャドウ・ワーク」には二つの意味があります。薄く透ける布に刺繍を施すことで、裏側の模様も同時に見せる刺繍の手法と、もう一つが、家事に代表される、女性が行うとされている、賃金の支払われない仕事のことを指しています。

碓井さんの作品は、軽やかな素材を用いて、歴史や社会の状況に対する批評性や政治性など語ることが特徴です。普段は意識しないものの、やはり自分自身も“女性だから~”といった世間一般の倫理観・ジェンダーの不均等な規範が内面化されていて、時に心理的な葛藤を感じていることに気が付かされます。

あいちトリエンナーレでは、参加アーティストの男女比率を半数ずつにしたことが話題を呼んでいました。ジェンダー複雑な問題を、繊細かつシンプルに表現する碓井さんの作品が、冒頭に展示されていることに意味があることを感じます。

作品が展示されて居る様子

生命倫理とこれからの価値観について

美術手帖のインタビューの中で、碓井さんは、「本来のシャドウ・ワークを拡大解釈して、社会で見過ごされてきた概念、既存のバイアスにかけられた価値観を作品で取り上げている」と話しています。今回の作品も、作者の不妊治療を経た妊娠を契機として、生殖医療に伴う家族形成の変容など、科学技術の進歩に伴う、目に見えない生命倫理観の変化を提起する試みと考えられます。

近年のIPS細胞をはじめとする再生医療や、AIなどの科学技術の進歩によって、これまで疑うことのなかった生命の境界に関する議論が重要なテーマとなっています。こうした生命を巡る価値観について、女性あるいは母という立場から、既成の視点を問う作品はどのようになるのか、これから作られる作品にもぜひ注目したいと思っています。

仲居 玲美(15期研修科)

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