Articles

「社会の中での科学技術コミュニケーター役割:科学ジャーナリストを例に」(5/29)隈本邦彦先生 講義レポート

2021.6.18

浅野希梨(2021年度 研修科/社会人)

モジュール1、3回目の講義は、「社会の中での科学技術コミュニケーターの役割:科学ジャーナリストを例に」のタイトルで、隈本邦彦先生からの講義でした。

小さなメディアであるコミュニケーターとして聴く

本年度初回の講義にさかのぼりますが、川本先生の講義で、ハッとさせられたことがありました。

「科学技術コミュニケーションの課題中で、ともすればマスメディア批判ばかりを行うことになる。しかしそれは、ブーメランのように科学技術コミュニケーターの我々に返ってくる。なぜなら、科学技術コミュニケーターである我々も小さなメディアであるからだ。」

こんな内容でした。科学技術コミュニケーターは、マスメディアほど大きな影響力は持ちませんが、コミュニケーターを名乗っている我々もメディアあることを自覚しないとならない、そんな戒めと鼓舞と受け止めました。

さて、小さなメディアである私たちは、果たしてどんなカタチで「科学を伝え」ればいいのでしょうか。そんな問いを心に留めて臨んだ、隈本先生の講義でした。

隈本先生は、もともとはNHKの科学報道を担い、様々な番組を世に出してきました。そして、CoSTEP立ち上げにも関わった方でもあります。「科学を間違いなく伝える」信条のもと、現在も現役の科学ジャーナリストとして、活動していらっしゃいます。

なるほど。“正しく”ではなく、“間違いなく”という言い方に先生ご自身のこれまでの科学報道での実感がこもっています。

科学の問題は専門家にお任せでいい?のか?

かつて、科学の問題は、専門家にお任せしておけばよいもの、という考え方が主流でした。過去には、科学の問題が、一般市民の生活と関わることはほとんどない時代がありました。その事例として、江戸時代から採掘がはじめられた佐渡の金山では、当時の先端科学技術である鉛のアマルガム法を使って金の製錬が行われていた例が示されました。この製錬方法を知っているのは、管理する幕府の山奉行など限られた範囲でした。

しかし、時は流れ、私たちは一人が1台スマートフォンを手にする時代に生きています。この時代では、科学技術を持つことが国の存亡に関わり、科学技術は、人々の生活に不可欠なものとなり、情報、技術を手にしているものが豊かさを享受しているのです。

とりまく社会も変化してきました。例えば、日本でも裁判員制度のように、専門的な判断の場に、市民が参画するようになりました。事例は限られていますが、科学技術に関わる政策決定のプロセスにも市民が参加するようになりました。

専門家に対する考え方も変わりました。2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故後、「原発事故を防げなかった」、「事故後に説明が思わしくできなかった」専門家に厳しい視線が向けられました。科学技術への見方も変わったことが分かります。その事例として、講義では、事故の話のとき、1970年の大阪万博会場に映し出された電光掲示板が示されました。隈本先生が問いかけました。「“原子力発電による送電”がかつては、科学の華々しい成果でした。いま、同じことを言ったら、人々の反応はどうでしょうか」

科学を取り巻く変化は、人々の考え方の変化でもあります。統計数理研究所の調査結果が示されます。このグラフを見ていくと、ある時を境に「人間が幸福になるためには、自然に従わなければならない」という考え方が「自然を征服しなければならない」とする考え方を上回り続けています。転換点は、1968~1973の間にあります。この頃、公害問題がクローズアップされ、「科学の進歩=自然を征服する」という構造の考え方は失われていきました。

ふつうの感覚とは…?

科学に対する市民の漠然とした不安は、感情的で論理的とは言えないものですが、この感覚は極めて大切で、論理的でないからと言って切り捨てられるべきものでもありません。例えば、「高度処理水を飲んで」と言われたら、論理的には、問題ないと理解できていても、感情的にはあまり飲みたくないと拒否するでしょう。そればかりでなく、科学者と市民の間に、大きなズレが生じていることがあります。市民が得ている情報源と科学者が情報発信するメディアの違いです。市民は、テレビや新聞などのマスメディアから多くの情報を得ているのに対し、科学者は、所属機関やシンポジウム・講演会などでの発表が主です。科学者本人が数多くの講演会で講演し、多くの聴衆を目にした実感があっても、市民へ届く声はわずかです。この例からもわかるように、市民の判断にマスメディアは、大きく関わっています。そして、伝達手段や理解度、感覚などのズレを埋めるコミュニケーション手段として科学ジャーナリズムがあるのです。

個人の判断には、2種類あると言います。例えば、大学や仕事を選ぶとき、何か高価なものを購入するとき、多くの人が労力をかけて調べ、慎重に判断します。これは自分にとって重要な決断をする場合の「中心的ルート」での判断です。一方、そこまで関心の高くない製品を購入するときは、詳細には調べず、周りの情報をなんとなく信用し、直感的に判断します。これは、自分にとってあまり重要ではない場合の「周辺的ルート」の判断です。この科学的な“周りの情報”の一端を担っているのがメディアです。科学に関するニュースが増え、その内容が高度化、複雑化し、人々が周辺的ルートで判断する際、科学ジャーナリストの役割が重要だと隈本先生は言います。

「悪しき客観報道」

科学技術ぬきの生活が考えられない、現代社会で科学ジャーナリストは、重要な役割を担っているにも関わらず、日本のそれを取り巻く環境は旧態然としており、課題が多いと実例を含め紹介していただきました。隈本先生は、「日本の科学ジャーナリズムは、科学者の第1の使命を果たすよう科学者に促してきたのか」と問います。客観的立場から報道することが大切ではありますが、「ある専門家はこう言った、政府担当官はこう発表した」といった情報源からの伝聞をただ記事に載せるだけの日本における「悪しき客観報道」は、苦い過去から繰り返されてきました。前回の東京オリンピックの年、1964年に報道された「薬害スモン」問題を、当時の報道を振り返り、科学的検証や適切な取材を欠いた記事を見ていきます。同様の報道が、水俣病、薬害エイズ、HPVワクチンなど今も続いていると言います。

科学技術コミュニケーターとして、私自身、「悪しき客観報道」に似たことをしてきていないか?専門家の意見を自身の血肉にしてから伝える努力を欠いていないか?と自省せざるを得ませんでした。

まとめ

隈本先生は、言います。「中立的な立場にいる、というのが理想ですが、科学の問題は複雑な専門知識が必要とされ、両者の立場を理解できる神様みたいなコミュニケーターになることはほとんど不可能です。実際は、どちらかの側に寄ってしまうことが現実でしょう。そして、科学の問題は、裁判官のいない裁判のようなものです。相手の言っている嘘を見破り、的確に指摘できる弁護士のようなコミュニケーターが理想でしょうね」と。どこまでも“ふつうの感覚”を持ち続け、併せて、専門的知識へも出来る限り近づける人、それが小さなメディアとしての科学技術コミュニケーターのひとつの姿勢なのではないか、と考えました。

隈本先生、ありがとうございました。