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「科学技術とアート出会うとき翻訳としての科学技術コミュニケーション」(6/17) 野原佳代子先生の講義レポート

2017.7.6

好井優衣  (2017年度 本科 / 学生)

今年度のモジュール1(科学コミュニケーション概論)の最後を締めくくる講義は、野原佳代子先生(東京工業大学 教授)による「科学技術とアートが出会うときー翻訳としての科学技術コミュニケーション」でした。

人それぞれの捉え方

授業は三つのイメージをみて、何を感じるか、何に見えるかを議論するところから始まりました。美しいと思う人もいれば、価値がわからないという人もいます。人工的に作られたものに見える人がいれば、自然の造形物だという人もいます。同じ画像を見ているはずなのに、そこから見えてくるものは人によって全く違います。

科学技術コミュニケーションがうまくいかない理由

人による画像の解釈の違いを、科学技術コミュニケーションについて当てはめるとどのように考えられるでしょうか。科学技術コミュニケーションがしばしばうまくいかない理由として、野原先生は「事実」と「自分ごと」の乖離を指摘されました。乖離というのは、地球温暖化を例に挙げると、地球の平均気温が上昇しているという「事実」は理解できるが、自分にとってそれが何を意味するのか、「自分ごと」として理解できていない状態です。「事実」を理解していても「自分ごと」としてそれが腑に落ちていなければ、人は関心を示しません。では「事実」と「自分ごと」の違いは何でしょう。そもそも「事実」とは何なのでしょうか。

事実と自分ごと

「事実」とは何なのかについて、再び全体で議論が始まりました。今目の前で起きている現象が事実か、科学的に証明されたことが事実なのか。活発に議論されていく中で仮説として立てられたのは、事実というのは「一義的に定義され得るもの」ではないかということです。例えば、H2Oという記号は一義的に水を意味します。一方、何かが自分にとって何を意味するか、つまり「自分ごと」は人によって異なります。講義の最初に見た3つのイメージのように、何かの情報をどう受け取るかが人によって異なる、それが「自分ごと」ということだと思います。

翻訳とは

「事実」を「自分ごと」として理解してもらうために必要な手法を考えた時、そこで登場するのが「翻訳」です。翻訳という言葉を使う範囲は広く、日本語と英語というような言語間だけに限りません。言葉を記号化するのも翻訳、本を映画にするのも翻訳だと言えます。元のコンテンツに込められたメッセージを再構築し、新たなコンテンツに仕上げること、どのようにメッセージを再構築するかは翻訳する人によってそれぞれ方向性が異なります。そこに生じる意味の「ズレ」の距離も異なります。「あるものが別の記号に変わると、何かが消え、何かが残り…、ただそれだけのようでいて、よく見ると実は、まったく新しいものになっているのです。情報コンテンツと、記号・言語・メディアを組み合わせ、ぶっつけてみることで、クリエイティブな化学反応をおこすことが、「翻訳」です。(野原研究室HPより引用)」

「事実」を「自分ごと」に翻訳する

科学技術コミュニケーターとして「事実」を「自分ごと」に翻訳するにはどうすればいいのでしょう。その一つの手段として野原先生が最後に提案されたのが「アート」です。「事実」を扱うサイエンスをどう「自分ごと」に翻訳するか、翻訳すると何が起こるのか、これからのクリエイティブな化学反応がとても楽しみです。