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抜け落ちたものを拾い上げるために

2020.2.13

弓指 寛治《輝ける子供》2019年

情緒あふれる円頓寺商店街の一角に、弓指 寛治 氏の作品「輝ける子供」は展示されています。どこか寂れた雰囲気のある賃貸ビルの一階が展示会場である本作品は、2011年に栃木県鹿沼市で起きた交通事故が題材となっています。この事故では、クレーン車の暴走により下校中の子供たち6人の生命が奪われました。展示室に入るとまず視界に飛び込んでくるのは、その事故直後の様子が描かれた一枚の油絵です [1]。人の背丈ほどのキャンパスには、なぎ倒されたフェンスや散乱する木の枝、被害者のものと思われるランドセル、そしてそれらを踏みつぶすクレーン車が、生々しく、そして淡々と描かれています。

事故直後の様子が描かれた油絵。倒されたフェンスや木々、散乱した破片など、執念深く細かに描かれている。

展示室の奥へ進むと、事故で亡くなった子供たちの似顔絵や被害者の一人である熊野 愛斗くんの日常が描かれています。これらの絵は、弓指氏により子供が描いたようなタッチで、明るくカラフルに描かれています。またその周りの壁には、愛斗くんが生前に書いた数々の詩が書き添えられています 。つたない手書きの文字に宿った幼い命と、その中で美しく育まれた魂が、鑑賞者の心に突き刺さります。

愛斗くんが書いた詩を、シルクスクリーンにより手書きの字のまま写したもの。

展示室の出口へつながる通路は、車の絵が描かれた大きな布が塞いでいます [3]。暗いトーンで描かれ、インクが滴り落ちる様子は、事故や血を連想させます。展示室を出るためには、この重い布を何枚もくぐり抜けなければなりません。その布の間隔は、くぐる度に狭くなっていき、車が近づいてくるような切迫感が表現されています。

大きな重い布に描かれた車の絵。展示室を出るには、同様の絵を何枚もくぐらなければいけない。

ただし、この作品は単に被害者の悲劇を描こうというものではありません。普段メディアでは描かれることのない加害者の背景をも描こうとしていることが、この作品の特徴です。現在の報道メディアの中には、被害者を悲劇的に描くことで受け手の同情を誘い、時には加害者の気持ちが無視されたものも、しばしば見受けられます。そこに抜け落ちた何かを感じ、表現しようとしたのが、今回の弓指氏の作品です。

弓指氏は、単に「被害者」としてではなく、ひとりの「人間」として愛斗くんの人生や人柄を描きました。そして単に「加害者」としてではなく、ひとりの「人間」として加害者や加害者の親の過去と現在を描こうとし、そしてそれが困難な現実を知り、そこで深追いはせず断念しました 。そこに弓指氏の被害者や加害者、そして作品に対する誠実さを感じ、現在の報道や社会で抜け落ちているものを考えさせられました。

加害者側の取材を試みたが、それが困難である現実が、弓指氏の手によって書かれている。

世間は日々多くの事故や事件のニュースで溢れています。それぞれの事故や事件にはそれぞれの被害者と加害者がいます。そして彼らには、それぞれの家族があり、背景があり、人生があります。しかしメディアの性質上、彼らの全てを伝えることはできません。メディアでは伝えられないものの存在を、受け手自身に気づかせ、そしてそれぞれに深く考えさせる。アートがもつ力の大きさを感じました。

あいちトリエンナーレ2019のテーマは、『情の時代』です。この作品は、「情報」だけでも、「感情」だけでも、「情け」だけでも語ることのできない「何か」を考えさせられる作品でした。その「何か」が、完璧に表現されることはないでしょう。だからこそ、弓指氏はこの作品を通して「何か」を拾いあげようとし、私たち一人ひとりが「何か」を考え続けなければいけません。

抜け落ちた何かを拾いあげることは、サイエンスコミュニケーションにおいても重要なことだと思います。トランスサイエンス問題など、理性だけでも感情だけでも答えが見つからない問題を扱うのがサイエンスコミュニケーションです。本作品に含まれている被害者と加害者の両方の視点を汲み取っていこうとする考え方や手法は、トランスサイエンス問題における専門家と市民の構図にも通じるものがあると思います。私たちがこれからサイエンスコミュニケーションを行なっていく上でも、議論や発展の上で抜け落ちてしまったものを可視化し、一人ひとりが当事者意識をもって考えられる場をつくっていければと思います。

菅原 収吾(CoSTEP15期本科「札幌可視化プロジェクト」実習)