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[芸術祭選択実習03] 成田真由美  | 死の手触りを「諏訪敦」作品に視る

2021.3.15

大野一雄に憑依した川口隆夫を描写する / 撮影:野村佐紀子

<ここで生きようとするの終着点>

 コロナ禍の影響で中止になった札幌国際芸術祭2020のメインテーマは「Of Roots and Clouds:ここで生きようとする / Sinrit/Niskur」である。ここで生きようとするということは、ここで死んでいくということと同義であると思っている。光と影のように、生と死は不可分であり同じものだからだ。生を描くなら、死も描いた方がいい。

 諏訪敦氏は、199年から舞踏家の大野一雄(1906-2010年)氏と彼の息子である大野慶人(1938-2020年)氏を取材し、描画に至る行為全体を一つのプロジェクトとして表現したシリーズから抜粋した作品と、大野一雄を踊るパフォーマー川口隆夫氏を描く新作を出展する予定だったとのこと。そのふたつの柱のうち、大野親子のシリーズから抜粋された作品に《大野一雄》2007年がある。死の3年前に制作された作品は、夜具に横たわり、口を半開きにした皺皺に枯れた大野氏が描かれている。老人班の浮いた両手を胸の上で交差させる構図は、否応もなく死を連想させる。ここに、「舞踏」という身体表現分野の創始者である土方巽氏と並び称された舞踏家の面影を見ることは難しい。生きることの果てにある終わりを予感させて、胸が苦しくなる。しかし、絵の中の彼が「死に向かっている」のか「生きようとしている」のかは、鑑賞者にゆだねられている。

<いま・ここ、から想像力で向かう先>

 芸術祭には、いま・ここでしか体験することのできない一期一会のパフォーマンスも欠かせない。圧倒的な質量と熱量で観客を魅了し、開幕まで期待に胸を躍らせて待つ時間ですらも至福の時であるステージの存在感は、芸術祭の醍醐味でもあると思っている。そのステージは、音楽やダンス、演劇など多様である。残念ながら、その計画すら公表される前にSIAF2020は中止となったが、世界各地の音楽フェスティバルに出演しているOKI DUB AINU BANDを率いるOKIのトンコリライブは、開催されたであろうと推測する。音楽があれば身体的表現のダンスも…と想像を膨らませれば、諏訪氏の新作の協力者である川口氏のダンス公演が想定されるであろう。そんなことも妄想しながら、諏訪氏のインタビューや企画を観れば、この企画には、川口氏のダンス公演が不可欠であろうとさえ思えた。SIAF2020では、完成した作品を観ることはかなわないが、いつかどこかで邂逅するできるかもしれないという楽しみは得られた。これも、コロナ禍の今ならではの、中止した芸術祭がもたらしたものともいえるだろう。

 また私は、生前の大野一雄氏の舞踏を見る機会は得られなかったが、それは川口氏も同様であり、そのことを諏訪氏は「不可能性を抱えている」とインタビューで語っていた。観る側も観られる側も同様に、知ることが叶わないことに向き合いながら、出会うことのない故人に想いを馳せる瞬間が訪れることを想像すると、自分の思考が未来だけでなく、過去に向かっていることに気づき、不思議な感覚に見舞われて面白い。

<繋ぐ役割>

 SIAF2020には、アートメディエーションという鑑賞者と芸術祭をつなぐ役割が導入された。メディエーションは、アーティストやキュレーター、作品、鑑賞者、組織、主催者など、それぞれが交わる「あいだ」に現れるらしい。アートメディエーションは、対話を生み出すプロセスであり、すべての人に開かれた平等で対等なプラットフォームとのこと。科学技術コミュニケーションも同様に、科学と人をつなぎ、新たな知己やそれに基づいた個々の判断を後押しするような役割も持ち、双方向の交流を促すものであると理解している。

 ただ、科学にはその時代を反映した学術的な「正解」が用意されている(新しい発見により覆されることもある)が、現代アートの鑑賞に正解はない。正しさだけが正義のように捉えられることの多い現代において、先鋭的な専門性と日常生活の「あいだ」をつなぐ役割は、ますます重要になると思えてならない。

参考
SIAFアーティストインタビュー / SIAF2020企画 PDF版
ATSUSHI SUWA WEB SITE
・SIAFTV アーティストトーク13「いま、かんがえていること」(2/13)
*配信終了