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「「研究者」という概念を再構築する」2/4 森田真生先生の講義レポート

2017.3.10

古澤 正三(2016年度 本科/社会人)

今回は、独立研究者として活動されている森田真生先生にお話をしていただきました。自己紹介を兼ねたお話は、おもしろいエピソードが満載で会場は笑いの渦に包まれました。森田先生は、山伏・体育教員・バスケットボール部コーチの甲野善紀先生、物理学を専攻していた株式会社サルガッソーの鈴木健さん、数学者の岡潔さん、コーデノロジストの荒川修作さんに大きな影響を受けたそうです。数学を通して「人が生きているとはどういうことなのか」を問い続けている森田先生は、数学者というより、哲学者や思想家のようでした。

独立研究者とは?

森田先生が独立研究者という肩書に出会ったのは学生時代にさかのぼります。数学者ばかり写っている写真集を読んでいたときに、「Independent scholar」(独立の学者)と書いているアフリカ出身のアメリカの数学者と出会い、それがすごくかっこいいと感じたそうです。森田先生は、「肩書が与えられないような人生を生きたい」と考えています。フレームをつくらずに活動したいという思いから、フレームがあってないような漠然とした肩書である独立研究者を名乗っているそうです。

数学を学び始めたきっかけ

森田先生は高校時代、甲野先生のもと、ナンバ走りを取り入れるなど、古武術を使ったバスケットボールを通して「身体を使ってものごとを考える」ということに興味を持ちます。そして、「心境冥会して道徳玄に存す(性霊集)」という空海のことばに出会い、こころと環境の関係に関心を持ち、学んでいく中で仏教的探究と科学的探究に矛盾を感じたそうです。

「身体を使う学問を作りたい」という思いで大学の文系学部に進学し、自分の身体を動かしながら探究する方法を考えるうちに、社会での身体は組織だと気づき、自分の会社をつくることを思いつきます。当時起業が流行っていたこともあり、会社をつくりたいという思いでシリコンバレーに行き、AppleやGoogleなど、あちこちの会社にアポイントを取るための電話をかけまくります。そこで紹介された鈴木さんに感銘を受け、会社を手伝うようになります。鈴木さんとの出会い、そこで働く人たちの影響を受けて、数学を学ぶようになったそうです。

数学者・岡潔との出会い

ある古本屋さんで岡さんのエッセイ集「日本のこころ」を見つけ、その本を読んで衝撃を受けたそうです。数学者のエッセイなのに、本には難しい数式や数学的概念はほとんど書かれていませんでした。数学の本質は禅と同じで「主体である法が客体である法に関心を集め続けてやめないことである。そういうこころの働かせ方をしていると、内外二重の窓が開け放たれ、清冷の外気が吹き込んでくる」という一説に感動したそうです。そして、これまで矛盾を感じていた仏教的探究と科学的探究の魅力と不満足が掛け合わさって、どちらの要素もある世界を感じたそうです。このことがきっかけで森田先生は数学を猛勉強し、文系学部卒業後、数学科の3年生に転学することになります。

数学の演奏会

森田先生は、岡さんのエッセイの中に書かれていた「学問をする人はアルバイトはしてはいけない」という教えを守り、起きている時間はすべて数学を勉強し、寝ている時間でアルバイトすれば、岡さんの教えに背かずにお金を稼げると考えます。このことを学生時代から交流が続いていた甲野先生に話すと「それでは身体を壊すから講演会で対談しよう」と誘われます。この対談が数学のおもしろさを伝える原点となり、後に行う「数学の演奏会」につながったそうです。数学の演奏会とは、音楽の演奏を聴くように気楽に楽しめる、数学の世界をことばで語る会です。数学の演奏会を行うようになり、肩書がないことに対して不便を感じ、この頃から独立研究者と名乗るようになったそうです。

コーデノロジスト・荒川修作との交流

荒川さんは、岐阜県に「養老天命反転地」や東京都三鷹市に「三鷹天命反転住宅」など、人が死なないための建築をつくっていました。森田先生は三鷹天命反転住宅の元住人で、荒川さんの既存の思想や体系を選ぶのではなくて、思想や体系をつくるというところに共感したそうです。そして、さまざまな常識や慣習やルール、権力や市場や評判というものから自由に行動できるような位置を確保し続け、何者かにされてしまわない、特定の状況や文脈に埋め込まれてしまわないことが必要だと考えるようになります。これが独立研究者を選んだ理由の一つなのだと思いました。

数学の神・アレクサンドル・グロタンディーク

グロタンディークの自伝からこころに刺さったいくつかの話を紹介してくれました。森田先生は、精神や生き方においてはグロタンディークのような人でありたいと思っているそうです。

・研究するのは情熱をもってものごとを問うこと以上のものでも以下のものでもない。

・研究するというのは自分の持っている問いを発して、それにずっと耳をすませるだけのことであって、どこかに所属して何かを書いてどこかのジャーナルに載ってということが本質ではない。

・どんな探求でも自分の願望がなければ見せかけに過ぎず、くるくるまわっているだけで本当に行きたいところに行けない。

最後に森田先生は「いくつか選択すべき問題を、買い物をするみたいに選び、論文にして発表することが学問ではない。自分がぶつかってしまった特殊な問題にどれくらい普遍性があるか、役に立つかを先に考えるよりは、自分の具体的な生活の中から自分がぶつかっている特殊な問題を自分のローカルな風景の中で探究していって、問いを発し続け、耳を傾け続けるという行動の積み重ねの中に100人の中から一人、1000人の中から一人かもしれないけれど、多くの人を勇気づけたり、すごく役に立つものをつくったり、身の周りの人を励ますような人がいるかもしれない。そういう原点に帰ってみて何ができるかということに興味がある」と語ってくれました。

森田先生の、数学を通して人間の生き方を問い、自己探究をする活動は、私たちの研究や研究者に対する捉え方に大きな示唆を与えてくれました。そして、「知りたい」という気持ちがあったら、そのためにあらゆる手段を尽くすのが研究の原点であることがわかりました。

森田先生、どうもありがとうございました。