作成者:松永博充(選科A)

現代社会において、科学技術は私たちの暮らしと密接に関わっています。医療、災害、エネルギー、気候変動など、さまざまな課題に対して科学の知見が活用される一方で、市民の側では「なんとなく不安」「よくわからない」といった感情が根強く、SNSの普及によりその傾向は一層広がっています。このような“情報の非対称性”や“信頼の断絶”を埋める存在として、科学技術コミュニケーターの役割が注目されています。本講義では、その代表的な職業である「科学ジャーナリスト」に焦点を当て、NHKで長年にわたり医療・災害分野の報道に携わってこられた隈本先生の実体験をもとに、科学報道の課題や科学の限界、そして科学者・メディア・市民それぞれの責任について深く考える機会となりました。
1.講義内容のポイント
(1)科学と社会の関係の変化
かつて科学技術は「専門家だけが扱えばよいもの」とされていました。江戸時代の佐渡金山における鉱山技術のように、庶民がその中身を知る必要はなかったのです。しかし現代では、科学技術が国家の行方や私たちの暮らしに深く関与するようになりました。裁判員制度や医療現場の倫理委員会、市民参加型のコンセンサス会議など、市民が専門的判断に関与する場面が増えています。
(2)“なんとなく不安”と科学の距離感
「科学に対して漠然とした不安を抱くことは非科学的なのか?」という問いが講義の中で投げかけられました。たとえば、下水を浄化した処理水が山の湧水よりも安全だという科学的データがあったとしても、多くの人がそれを「飲みたくない」と感じるのは自然な感情です。こうした“非合理”な感覚は人類の生存戦略として培われてきたものであり、それを切り捨てることは危険でもあります。科学的説明の「正しさ」を一方的に押し付けるのではなく、感情と向き合うことが科学技術コミュニケーターには求められます。
(3)科学ジャーナリズムの現状と課題
科学と市民をつなぐ橋渡し役であるべき科学ジャーナリズムですが、実際には理想と現実に大きな乖離があります。記者教育はOJT中心で体系化されておらず、政府や企業の発表をそのまま報道するケースも少なくありません。スポンサーや記者クラブ制度などの構造的制約によって、独立した報道が困難になっている現状もあります。HPVワクチンに関する報道事例では、統計的有意差が認められないにもかかわらず「効果がある」と伝える記事が紹介され、報道による誤解のリスクとその責任の大きさが強調されました。
(4)トランスサイエンスと科学の限界
特に印象に残ったのが、Weinberg(1972)が提唱した「トランスサイエンス」の概念です。これは「科学に問うことはできるが科学だけでは答えることができない問題」を指します。たとえば、微量放射線の人体影響や原子力発電所の安全装置の設計基準などは、統計的な証明も実験的な検証も困難です。このような場面では、「どこまでが科学でわかっていて、どこからが不確かであるか」を正直に伝える姿勢が求められます。「科学の限界を認め、それを誠実に説明する無私の正直さ」は科学者に必要であり、科学ジャーナリストにはそれを促す役割があると学びました。

(5)科学技術コミュニケーターの役割について
講義を通して示されたCoSTEPの役割は、「社会全体を劇的に変えることは難しいが、誠実な情報発信を担える人材を一人でも多く社会に送り出すこと」であると語られていました。科学技術コミュニケーターは、科学者側、メディア側、市民側のいずれの立場に立っても構いませんが、その立場から“ごまかしや誇張のない伝え方”ができることが重要です。科学的知識だけでなく、相手への敬意や社会的な感度をもって、対話の土壌を耕す役割を担いたいと思いました。科学の“翻訳者”から、社会の“対話者”へ。私自身の活動も、そうありたいと強く思います。

2.講義を終えての私自身の気づき
私は現在、大学の研究成果を社会に展開する事業化支援に携わっています。研究成果を“伝える”役割を担う中で、講義で示された「報道による誤解」や「特定データの強調」は決して他人事ではありません。都合のよいデータだけを抜き出して成果を過剰にアピールしたり、前提条件を省略して説明したりすると、受け手に誤った印象を与える可能性があります。
本講義を通じて強く感じたのは、科学技術コミュニケーターとは「わかりやすく伝える人」ではなく、「疑問を立て、問いを残し、科学の“余白”を示す存在」であるということです。とくにトランスサイエンス領域においては、誰も正解を持たない問いに対して「ここまではわかっている」「わからないことはこれだ」と言う勇気、そして市民と共に考え続ける態度が必要と考えます。
3.おわりに
科学技術コミュニケーションとは何かを、CoSTEPでの学びを通じて捉え直す中で、私はそれを「科学の伝道者」ではなく、「社会と科学をつなぐ媒介者」としての役割と再定義する機会だと考えています。そして、一人ひとりが“科学の当事者”として問いを立て、選択し、未来をともにつくっていけるような社会に、少しでも貢献できるよう、現場での実践を重ねていきたいと考えています。
