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モジュール5-3 「民族多様性と『わたし』位置:大学を例に考える」(12/6) 北原 モコットゥナ先生講義レポート

2026.1.6

佐野 友宇子(2025年度本科対話の場の創造/社会人)

モジュール5-3の講義では、マイノリティを取り巻く差別や排除が、必ずしも明確な悪意によって生じているわけではなく、むしろマジョリティの無自覚さや「当たり前」によって再生産されていることが一貫して示されていました。マイノリティ性とは、ある社会においてネガティブだと意味づけられた差異を持つことによって不利な立場に置かれる状態であり、そのネガティブさ自体が社会的に「作られてきたもの」であると、北原先生は説明します。

講義ではアイヌ民族を例に、土地政策や教育、言語の抑圧などを通じて、制度的・構造的に差別が形成されてきた歴史が示されました。特に重要だと感じたのは、こうした差別が一部の差別的な個人によって引き起こされたのではなく、マジョリティ側の価値観や社会の設計そのものによって正当化され、継続されてきたという点です。マジョリティは社会の中心に位置するがゆえに、自らの立場を問われることが少なく、その結果として、差別の加害性が不可視化されやすいのだと感じました。

「知らなかった」「悪気はなかった」という言葉が、差別を否定する免罪符として機能してしまうという指摘は、私自身の経験とも重なりました。私は、ある疾患を発症したことによって、後天的にマイノリティの立場に置かれた経験があります。それ以前は、社会の中でむしろマジョリティの特性を多く持ちながら、それに気づかず、自分は差別意識を持たない「善良な人間」であるという自覚をもって生きてきたのだと思います。しかし、持病を発症して立場が変わったことで、周囲からの何気ない言葉や対応が、本人にとっては深く傷つくものになり得るということを、数多く経験しました。そうした言葉や態度のほとんどは、明確な悪意によるものではなく、むしろ善意やユーモアにあふれた、気が利いた言葉として投げかけられるものだったのです。しかし、発言者にその意図がなくても、当事者の自己決定や尊厳を損なう場合があることを知りました。講義で指摘されていたように、「相手のため」という名目で行われる行為が、実際には非対称な関係性を前提としており、対等性を欠いていることに気づかされたのです。

ここでいうマジョリティ性は、単一の属性によって決まるものではなく、国籍、民族、健康状態、性別、学歴など、複数の要素が重なり合って形成されるという点も重要だと感じました。マジョリティ性を多く持つほど、社会の設計は自分向けになりますが、その特権性は見えにくくなります。私自身も、疾患を抱える以前は、自分が「配慮される側」であることをほとんど意識せずに過ごしてきました。その無自覚さこそが、他者の困難を見えなくしていたのだと、今は思います。

人間はそもそも、世界を理解するために区別や比較を行う存在であると、私は考えています。違いを見分け、分類し、関係づけることで物事を認識している以上、そこから価値の優劣や正常/異常といった判断が生まれてしまうのは、ある意味で自然な過程なのかもしれません。そのため、差別的な意識を完全にゼロにすることは非常に難しいでしょう。人は誰しも、無意識のうちに他者を区別し、線を引いて世界を認識しているのです。

しかし本講義を通して、差別が「自然に生じるもの」であるからこそ、それを自覚し、抑え、問い直すこともまた人間の特性であると感じました。差別が生じること自体は避けがたいとしても、それをそのまま受け入れるのではなく、「今の認識はどこから来たのか」「自分はどの立場から見ているのか」と立ち止まることができるのも、人間だからこそだと思います。マジョリティ性を意識するとは、差別をしない完璧な存在になることではなく、自らの中にある偏りや無知と向き合い続ける姿勢を持つことなのだと、講義を通して改めて強く感じました。

差別は決して遠い問題ではなく、誰もが加害者にも被害者にもなり得ます。その現実は重いものです。しかし同時に、自分の認識を更新し続けることができるという事実は、希望でもあるのではないでしょうか。差別が「避けられないもの」であったとしても、それに抗おうとし続けること自体が、共生社会に向けた実践なのだと考えます。

(北原先生に質問をする著者)