アナ・ドミトリウ・アレックス・メイ
《ArchaeaBot: A Post Climate Change, Post Singularity Life-Form》
SIAF2020に出品予定だった《ArchaeaBot: A Post Climate Change, Post Singularity Life-Form》 2018年 アルスエレクトロニカ、オーストリア ArchaeaBot: A Post Climate Change, Post Singularity Life-Form, 2018, was planned to be exhibited at SIAF2020, Ars Electronica Festival, Austria, Photo by Vanessa Graf
水槽のなかの脳だ。
札幌国際芸術祭のウェブページでこの作品を初めてみたとき、直感的にそう思った。
ときおり考える。ヒトのこころのはたらきに、からだは必要だろうか?
たとえば、からだに相当する部分をなくして、脳だけを水槽のなかに浮かべたとき、ヒトはからだをもっているときと同様にあらゆることを感じることができるだろうか?同じように自身や他者の感情を認識することができるだろうか?
わたしのあたまのなかにしか存在していなかった水槽に浮かぶ脳が、目のまえの作品と重なった。
しかし、実際に水槽のなかでうごめいているのは脳ではない。「ArchaeaBot (古細菌ロボット) 」という名前からもわかるように、これは古細菌を模したロボットだ。気候変動および人工知能が人類の知能を超えるとされる技術的転換点 (シンギュラリティ) を迎えた、ヒトさえもいなくなった世界における生命のかたち。それがこの作品であるという。
インタビューのなかで、制作者のひとりであるドミトリウ氏は『ArchaeaBot』にシンギュラリティやロボット・AIへの恐怖を融合させたと述べている。こういったテクノロジーに対する「恐怖」というものは、わたしにはいまいちぴんとこなかったが、わたしが水槽に浮かぶ脳に思いめぐらすときに感じるものと似ているかもしれない。ヒトをヒトたらしめているものはなにか。そしてそれがほかのもので代替可能であるとしたら、ヒトがヒトとして存在する意味はあるのだろうか。それを考えていったときに感じる、何ともいえない不安のようなものに近いものかもしれないと思った。
『ArchaeaBot』はアーティストと研究者が共同で制作した作品のひとつであるが、ここでひとつの疑問が浮かんだ。どこまでがサイエンティストのあたまのなかで、どこまでがアーティストのあたまのなかなのだろう?この作品のモチーフとなった古細菌の可視化や、動力メカニズムについて明らかにしようと試みる研究者たちも、世界の終わりに生きる生命体や、そこに至るまでのテクノロジーとヒトとの関係に思いはせることはあるのか、ぜひ聞いてみたいと思った。
というのも、研究者のあたまのなかが何らかのかたちをもって他者の前に現れるのは、研究成果をまとめた論文がほとんどであるように思われる。わたしは脳の活動からヒトの心のはたらきを明らかにしようとする認知神経科学の研究室に所属している。水槽のなかの脳は、こころとからだの関係を考えているときに思いついたものだった。それはあたまのなかで自分の問いを考える手がかりにはなっても、「外」に出すことはない。しかし、研究者や自分と同じように研究に取り組む学生から研究にかかわる話をきくとき、そのルーツとなるアイディアや経験にわくわくする瞬間がある。それは、わたしにとっての水槽のなかの脳を、ほかの研究者にみる瞬間であるように思う。
科学技術コミュニケーションはその目的にもよるが、科学の内容や視点、それにまつわる二次的な問題を扱うことが多いように思われる。これに対して、科学 (広く学術研究) に直接的にかかわる研究者たちの「水槽のなかの脳」を表現しようとするときどのようなことができるのか、またそれがアーティストのあたまのなかと交わるとき、どのようなことが起こるのか、みてみたいと思った。
キャロリン・リーブル ニコラス・シュミットプフェーラー
《Vincent and Emily》
SIAF2020に出品予定だった《Vincent and Emily》 2018年 / Vincent and Emily was scheduled to be exhibited at SIAF2020, 2018
わたしたちは他者にも自分と同じように心があると考え、それを理解しようと試みる。しかし、他者の感情や考えていることをまったくそのとおりに理解することはできない。他者のことを「わかった」つもりになることしかできないのだ。
そのことを改めて感じさせられるのが、『Vincent and Emily』であるとわたしは思う。
VincentとEmilyは対となるロボットである。学習メカニズムは搭載されておらず、互いを探す行動をとること、そして視野にある動くものを見ることだけがプログラムされている。鑑賞者は、彼らが互いに近づいたり、それぞれが別々に動いて鑑賞者に近づいたりする様子を見て取ることができる。そして、鑑賞者はVincentやEmilyの動きに意味を見出し、彼らの感情を想像する。
制作者の2人は、VincentとEmilyのような知性 (学習メカニズムのことを指す?) をもたないロボットと交流することで、ロボットに知性があった場合の関係性を考えることにつながるとしている。しかし、わたしには知性の有無がそれほど重要であるとは思えなかった。むしろ、ヒトは知性をもたないロボットにさえ心のようなものがあると考え、感情や行為の意図を想像するといえるのではないだろうか。
また、この作品は、制作者のいうヒト対ロボットという構造にとどまらず、ロボットまでも含む「他者」に対するヒトの無自覚な自分勝手さを浮かびあがらせるものであると思う。しかし、Vincentと Emilyと交流するとき、鑑賞者はそのような自己中心性に気がつくことができるだろうか。もしアーティストの解説にふれる機会がなければ、この作品を見たとしてもいつまでも気がつかない可能性も十分ある。そして、そのことがより他者理解におけるヒトの特性を際立たせるように思えた。
とはいえ、わたしは今回直接作品をみておらず、作品、作品と交流する鑑賞者、そしてアーティストによる解説を外側から眺めている感覚に近い。だからこそ、作品をとおして考えることができたようにも思える。実際に作品の目の前に立ったとき、わたし自身にどのようなことが起こるのか体験してみたかった。
この作品に対して、わたしは制作者の意図に反した見方をする批判的な鑑賞者になってしまった。それは、自分がもつものの見方-今回であれば社会認知を学ぶなかで考えてきたこと-をいったん取り払ってみることの難しさを表しているように思う。何かを理解しようとするとき、もっと広くいうと世界を認識するとき、自分がもっているフレームを自覚しておくことが必要なのだろう。しかし、それを自覚することもまた難しい。もしかしたら、そのことに気がつくきっかけとなるのがアートなのかもしれないと、この作品について思いめぐらすなかで気がついた。そしてそれはアートに限らず、科学技術コミュニケーションにおいても同様のことができるのではないかと考えた。