著者:安部義孝
出版社:新日本出版社
刊行年月日:2020年6月30日
定価:1,500円(税別)
現役水族館館長が綴った、水族館の現場と「命の教育」への挑戦
地球に生命が誕生し38億年が経った現在、生物の種数は137万種近く確認されている。更に恐竜などの古生物、新種や発見されていない未知の種も含めるとその数は計り知れない。種や生態系は隕石衝突や地球が全て氷に覆われるなどの劇的な環境変動によって変化し、長い生命の歴史の中である種は絶滅し、ある種は偶然生き残る、ということが幾度となく繰り返された。世間一般では、種の多様化を「進化」と呼び、低次の種が高次の種へと一方的に発展していくことだと思われがちだが、ここで本書の言葉を借りるなら「進化は進歩ではない。それは絶滅の歴史でもある」のだ。
著者は、上野動物園や葛西臨海水族園の展示設計・運営に携わってきた。今はアクアマリンふくしま(公益財団法人ふくしま海洋科学館)の館長を勤めている。アクアマリンふくしまは、現在は福島県いわき市小名浜港にある水族館であり、さまざまな独創的な試みで知られる。本書は、水族館に携わるなかでの様々な体験をしてきた著者の「冒険小説」と言える。
筆者の体験は順風満帆なものばかりではない。ここで筆者の上野動物園で勤務していた際のエピソードの1つを挙げよう。筆者らは、当時国内の水族館で展示されていなかったアオザメなど大型のサメ類を捕獲し展示する指示を受け、捕獲後に鼻に麻酔薬を噴霧するなど、様々な方法で、輸送するための試行錯誤を続けた。しかし、大型のサメ類を持ち帰ることができなかった。その後判明した原因は、なんと「船酔い」。運搬時の水槽内の揺れに、サメの平衡神経が対応できなかったのだ。このような、様々な生き物とそれにまつわるトラブル、そして解決に奔走する筆者のエピソード1つ1つから、水族館の舞台裏を垣間見ることができると同時に、生き物の面白さや不思議さを感じられるのではないだろうか。
もちろん、アクアマリンふくしまについても丁寧に紹介されている。研究事例の1つとして、この水族館は2006年には古代魚の1種であるシーラカンスの泳ぐ姿を世界で初めて撮影した。このシーラカンスの特徴や生態、そしてその謎についても本書は分かりやすく解説している。
また、水族館の常設展示については、筆者が水族館に携わった当初から力を入れていた水圏生物の進化について、化石と古代からほぼ姿を変えていない珍しい生き物たちの展示から始まる。そして、福島県の渓流を含む地元の環境を再現した展示を抜け、冷たい親潮と温かい黒潮の出会う「潮目の海」を再現した大水槽が見られる。展示以外にも、敷地内に自然環境を再現したビオトープの造成や子供連れも遊ぶことができる人工干潟など、自然体験の機会を提供し続ける様々な取り組みについても書かれており、読むだけでも楽しめる内容となっている。
水族館や動物園を含めた博物館は、実物あるいは複製したモノの展示、そして、五感を活用した体験で学びを深める、学校教育とは一線を画す生涯学習の拠点である。それと同時に、貴重な資料の保管や、地域に根差した研究を行う機関としても位置づけられている。様々な研究実績や知見の発信と体験を通じた世代を問わない新たな学びを提供し続ける博物館は、学術研究と市民をつなぐ身近な科学技術コミュニケーションの形の1つである。
社会では、極端な都市化による子供の「自然離れ」や理科系の科目への関心が薄れつつある「理科離れ」が問題となっている。これらは、科学リテラシーや環境問題などの対策にも影響を及ぼすと懸念されており、体験や実物を通じた学びを与える機会は、今の時代だからこそ決して失われてはならない。現在の水族館や動物園は、種の保全や自然体験の拠点となっているが、一方で未だに情操教育の域を出ないのも実情である。アクアマリンふくしまには、児童用展示ブース「アクアマリンえっぐ」がある。そこでは、例えば、ヒキガエルの死体が腐食し土に還るまでの様子が展示されている。他には、潮目の海を再現した水槽では、イワシの群れをカツオが襲う光景が見られることがある。こうした食物連鎖の現実や、動物の「死」という忌避されがちなテーマも含めた自然とのふれあいを通した命の教育は、環境に優しい次世代を育む上で、科学や自然への関心だけでなく、人の倫理の根底を育むきっかけにもなるはずである。
本書の最後に、筆者は新型コロナウイルスの蔓延に関して述べている。筆者によれば、感染症の蔓延は生命が誕生して以来同時に誕生したであろうウイルスや細菌が、その後も人類と共存している証なのだろうと説いている。38億年の生命の歴史で、ヒトの祖先が現れたのは約300万年前である。これは、生命の歴史の中ではごく最近の出来事だ。そのはるか前にも、カンブリア紀の爆発的な種分化、恐竜の出現と絶滅など様々な種の生きものが現れては絶滅した。これを踏まえ、筆者は「進化を進歩とする誤用」について見直してみること、そして「いま」を生きる私たちはその命を慈しみ、生きものへの優しさを育む必要があるのではないかと問いかける。
本書は漢字に振り仮名がふられており、幅広い世代にも読みやすくなっている。なかなか水族館に行く機会が限られる今だからこそ、この本で海の生き物や水族館に思いをはせるのもよいかもしれない。
大竹駿佑(CoSTEP17期本科ライティング・編集実習)