JJSCでは外部のご意見を頂き、編集方針等を改善していくため、アドバイザー制度を設けています。第36号に掲載の論考についてアドバイザーから、コメントをいただきました。公開の許可を頂いたコメントについて公開いたします。
原塑 東北大学大学院 文学研究科 准教授
掲載された論文のうち、私にとって内容的に特に興味深く、考えるべきことを多く含んでいた飯田論文と、大きな問題を持っていると考える大沼・小林論文について、長めにコメントをします。
飯田雅子「保護者とのサイエンスコミュニケーションはどうあればよいか : 「虫嫌い」の事例から」
科学コミュケーション論では、しばしば科学情報の受け手が平板な仕方で概念化され、ある意味で顔のない公衆や一般市民であると想定されてしまいます。しかし、実際には、社会は一定の構造を持ち、多様な人間関係に応じて、科学情報の伝えられ方や、科学情報が及ぼす影響が変わります。この論文は、虫に関する情報が、親と子、また特に母と子の間でどのように伝えられ、どう影響しそうかについて、メディア・専門家・インターネット上の人々がどのように考えているかを調べたものです。それによると、メディア・専門家・インターネット上の人々は、共に、虫に関して親の意見が子供に対して大きな(悪)影響を与える可能性があると考えていて、特に母親に問題がある、と述べる人々がいることを明らかにしています。こういった人々の意見は、単なる思い込みにすぎず、偏見とも言えるものです。実際、社会の中で、人々は他者に対して先入見、偏見に塗れて生活しているわけで、そういったことを前提として科学コミュニケーション活動を行うためには、どうしたらよいか、と考え込んでしまいました。
複雑な相互作用を互いに及ぼしあっている人々の間で、適切な仕方で科学情報が伝達されることを目論む際に、情報の送り手と受けての関係を、一方向/双方向の枠で理解しようとするのでは、枠があまりに単純でありすぎることは明らかです。この論文の最後に、「専門家を含めたサイエンスコミュニケーターと保護者の対話こそが,長い目で見て,現実的で訴求力ある情報発信につながってゆき,お互いに敬意をはらい相互理解を深めながら問題の解決をめざす,真の意味での双方向的なサイエンスコミュニケーションへと発展する」と明確な根拠もなく述べられているわけですが、なぜ、保護者に対するコミュニケーションを重視しなければならないと、考えるのか、また、なぜ、親に対する働きかけの目標が、理想的な双方向コミュニケーションの確立にあると考えるのか、著者自身が問い直すのは重要だと思います。せっかく、論文の課題設定は独創的で、得られた結果も興味深いのに、こういった結論が、なにげない仕方で述べられていることに、少々、がっかりしました。
大沼雅也、小林智恵「ELSIに関する市民対話 : 関与の背景をさぐる探索的研究」
読み始めてすぐの要旨の中に「ユーザーイノベーションや都市・まちづくりに関する研究群では,当事者・市民参画の背景をさぐる議論が蓄積されてきた.しかし,それらの知見を活用しながら,科学技術社会論の領域において当該ワークショップの精緻化が図られてきたわけではない」と書かれていて、科学技術社会論にそれなりのシンパシーを持っている私は、科学技術社会論にどのような議論が欠けていると著者は考えているのだろうか、と怪訝に思いました。その答えは、論文の本文に入るとすぐに与えられます。「科学技術社会論(以下,STS と記す)の領域において…そもそもどのような市民が,積極的に関わりを持ちうるのか,どのような人々がイノベーションの実現に向けて専門家と協力をしようとするのか,といった観点からは十分な検討が行われてきた訳ではない」。いやいやいやいや、そんなことはないでしょう。科学コミュニケーション論では、様々に設計されている多様なイベントにおいて、そこに参加する人々の属性、イベントで扱われている内容に対する知識や関心、イベントに参加する動機などを、質問紙を使って調べるのは定番の研究です。実際、貴誌、JJSCの過去号には、このようなタイプの研究を報告する論文、実践報告が掲載されています。にもかかわらず、対話型科学コミュニケーションに参加する一般の人々の傾向や動機は、科学技術社会論では、十分には研究されていないというのが、大沼さんと小林さんの認識なのですよね。そう考えるからこそ、科学技術社会論ではなく、「経営学のユーザーイノベーション(user innovation:以下,UI と記す)研究や都市・まちづくりに関する諸研究」を参照しなければならないと考えるのでしょう。
いったい、ここ20年の間、科学コミュニケーション論で蓄積されてきた、また現在でも蓄積されつつある膨大な研究が全く目に入らない、というのはどういうことなのでしょうか。独自性が強く、影響力があり、その意味で目立つ、日本で行われた研究としては、たとえば、川本思心さんが、2000年代後半に西條美紀さんと共に行った科学技術リテラシーの調査とそれに基づく教育プログラムの開発プロジェクトがありますし、2010年代の初めから加納圭さんが実施している、科学技術への潜在的関心層・低関心層へのアプローチの研究も重要です。この論文では、どちらも視野に入っていません。この論文における調査が示していることは、科学技術のELSIに関するワークショップに、当該科学技術に対する高関心層が積極的に参加したがる、という、ある意味、当たり前の事実です。このことは、科学コミュニケーション論ではよく知られていて、そうであるからこそ、科学コミュニケーション活動によって、低関心層(あるいは、潜在的関心層)をどう惹きつけるのが効果的か、が長年、議論されてきたのではないでしょうか。
これら二つ以外の論文については、簡単なコメントに留めます。
井田寛子、江守正多「気候変動問題を日本のテレビ放送はどう伝えてきたのか」
複数の調査方法を駆使して、タイトルの書かれている問題に迫ろうとした論文です。いくつかの興味深い個別の知見が得られていますが、得られた結果が雑多で、あまり整理されておらず、この論文を読んだ読者に対して、どのようなメッセージを読み取って欲しいと著者が考えているのかを、把握できませんでした。
片岡良美、川本思心「異分野研究者間の概念図を介したコミュニケーションの実際:学際的な共同研究におけるコンセプト可視化の事例から」
異分野との共同研究を推進することが政策的にも奨励されていることから、異分野の研究者がコミュニケーションをとる必要性は、今後もますます強まってくると思います。言語を介したコミュニケーションでは、ある分野では一般的な用語が、他の分野では、全く知られていなかったり、文字面では同じ単語が、様々な領域で異なる意味で使われていたりすることがあり、それがコミュニケーション不全を引き起こすことは珍しくありません。片岡さんと川本さんが行ったのは、一般の人々にも理解可能な図の作成に異分野の人々が共同で携わることで、理解のギャップがあらわになり、異分野の専門家が、それをどう克服していこうとするのかというプロセスを明示化した興味深い研究です。
個人的経験として、プロのイラストレータなら、専門家が述べることを聞いただけで、その専門家の期待通りに図示できるだろう、と言わんばかりの態度をとる専門家を見ることがあります。そういった専門家の人々には、この論文をよく読んで、図の作成そのものが、重要な研究推進の手段になりうることを知ってもらいたいな、と思いました。
深谷裕司、ヤン・ジングロ、松尾雄司、林嶺那「原子力政策文書を読み解くためのリテラシーを身につけるための科学コミュニケーションツールの開発 : 原 子力技術トレーディングカード」
原子力政策の決定過程を、人々が追体験できるゲームというフォーマットに落とし込み、それを大学生たちに使ってもらって、意識がどう変わるのかを調査した論文です。このようなゲームを使って遊ぶことにより獲得される知識や技能について、私は全く考えたことがなかったので、とても興味深かったです。ゲームをすることによる効果は、ゲームに参加する人々が重視している価値や、人々の属性に応じて様々に分かれそうな気がしますので、そういった点も含めて、今後の研究の進捗に期待します。
加部一彦 埼玉医大総合医療センター 新生児科
JJSC36号には論文2報、報告2報、ノート1報が掲載されており、気候変動から原子力政策、市民参加まで多彩なテーマが展開されている。
まず、最初の論文「ELSIに関する市民対話:関与の背景をさぐる探索的研究」では、ELSIをテーマとする市民参画型ワークショップにおいて、どのような属性の市民が積極的に関与するのかを探索的に検討しており、科学技術社会論(STS)の領域で盛んに議論されてきた「責任ある研究・イノベーション(RRI)」とELSIとの関係、市民参画の重要性とその具体的な方法論、特に市民の関与の実態に焦点があてられている。対話の場に参加する市民の属性に偏りがある場合、特定の意見や視点にのみ議論が集中し、多様な意見が反映されにくい傾向があり、その事によって、本来期待される対話の効果が薄れたり、ワークショップに対する不満に繋がったりする可能性が指摘されている。
次いで、二本目の論文「気候変動問題を日本のテレビ放送はどう伝えてきたのか」では、気候変動問題についてこれまで我が国のテレビ放送は何を伝えてきたのかを、2006年から2021年の15年間と言う長期間にわたるメタデータを用いて傾向とその背景を分析、今後、テレビ放送が気候変動問題の解決にどのように貢献できるかを検討している。気候変動が取り上げられた回数は、国際会議やイベントの開催と相関しているとの指摘には納得させられた。また、限られた時間の中で視聴者の関心を引くために、テレビ番組の中では複雑な気候変動問題を単純化したり、危機感を煽るような表現になりがちで、情報発信側から受信側への一方的な情報伝達と言うメディアの特性も相まって、テレビ番組を通じて視聴者が主体的に情報について考えたり、さらにはそこから対話を活性化させるには課題があるとの指摘も重要である。
報告の1編 「異分野研究者間の概念図を介したコミュニケーションの実際」では、異分野間の共同研究において概念図を用いたコミュニケーションの機会が増加している現状に着目し、「サニテーションプロジェクト」という具体的な事例を通じ、研究の考え方や目標を可視化する目的で概念図が多用される一方で、概念図を用いた研究者間のコミュニケーションの実態や、概念図自体の定義に関する検討が不足していることを指摘し、概念図を介したコミュニケーションがどのように行われているかの分析を行い、概念図は可視化を促すものの万能なコミュニケーションツールではないこと、またその作成や解釈において、描く側の意図と受け取る側の解釈のギャップが生じうるという課題が示唆され、共通の理解に至るかには依然として対話が必要であることが指摘されている。
ノートの1報「保護者とのサイエンスコミュニケーションはどうあればよいか – 「虫嫌い」の事例から」では、科学に関する情報発信が時に反発や批判を招くことがある状況に対し、サイエンスコミュニケーターがより効果的な対話を行うための方法を「虫嫌い」の事例を題材に考察している。専門家側からの一方的な情報提供や「こうあるべき」という姿勢が、保護者との対話を阻害する要因となる可能性があり、専門家が科学的な事実の伝達に偏り、受け手の感情や既存の価値観、生活経験への配慮が不足すると、反発や批判を招きやすいことが指摘されている。また、「虫嫌い」の事例を通じて、専門家と情報の受け手(この場合保護者)の間に信頼関係が構築されていない状況での情報発信は、たとえ内容が正しくても受け入れられにくいとの示唆は大変重要だろう。
これら4つの論考を通して、サイエンスコミュニケーションにおいて、専門家と一般市民の間であっても異分野の研究者間であっても、コミュニケーションに参加している人それぞれの持つ知識、経験、価値観には違いがあることから、常に同じ情報を見ても異なる理解や解釈が生じる可能性があること、それらの理解や解釈の違いやズレが、特に人々の生活や信念に深く関わる問題(「虫嫌い」や「気候変動」など)においては、専門家にとっては「客観的事実」である科学的知識であっても、市民感情や専門家とは異なった価値観の存在を尊重せず一方的に知識を押し付ける形になると、対話が成立せず、かえって反発を招く可能性が高い事が改めて理解できる。この様な背景を考慮し、市民参画型の対話の場においては、参加者の属性や対話に参加する動機を考慮する事により、参加者が主体的に議論に参加し、質の高い意見形成ができるような対話の場を設計する事が重要であること、さらには、対話の場におけるファシリテーションの重要性を改めて考えさせられた。サイエンスコミュニケーションの場が専門家、市民双方向の建設的な意見交換の場となるためにも、ファシリテーターの人材育成や受け手の理解に配慮したツールの開発と活用がまだまだ必要であろう。