天野瑠美(2021年度 選科/社会人)
「動物をどういう存在として理解していますか?」
このような質問から始まったモジュール4の3つ目の講義は、久保田さゆり先生(日本学術振興会 特別研究員PD)による「動物理解を問い直す-動物倫理の観点から」でした。久保田先生は動物倫理や法哲学について研究する傍ら、複数の大学で教鞭を執っています。今回の講義では、「動物を食べること」について動物倫理の視点からじっくりと考えました。
動物倫理とは?
まず、久保田先生は、動物倫理とは何かについて丁寧に説明してくれました。動物倫理とは、「人間が動物にたいしてする行為の是非を問う」ものです。より専門的な言い回しでは、「人間だけでなく、人間以外の動物が、倫理的配慮の対象であるという可能性を探求する、倫理学の一領域」と表現されます。
例えば、今回の講義をとおして久保田先生が例に挙げた「苦痛」について考えてみましょう。人間同士の関係において、多くの人は理由もなく相手に痛みや苦しみを与えることを倫理的に悪いことであると理解していると思います。これを人間と動物の関係に置き換えた時、動物も苦痛を感じるにもかかわらず、人間は動物に苦痛を与えて良いのでしょうか? 人間が苦痛を与えてはいけない対象を人間に限定する理由はあるのでしょうか?
人間が、人間同士の関係において適切な「理由」をもとに「正しい」「悪い」と価値判断していた範囲を、人間と動物との関係にまで広げて考えることが動物倫理なのです。
適切な「理由」
動物倫理に限らず、適切な「理由」を挙げることは倫理を考える上で非常に重要です。倫理は「人を傷つけてはいけない」というように個人の行動を規制する役割を担うので、誰もが納得できる相応の理由を説明できる必要があるからです。例えば、人間同士の関係において、AさんがBさんを殴ったとします。そして、その理由について、Aさんが「Bさんのことが嫌いだから殴った」と説明したとします。この時、Bさんは殴られたことを納得できないでしょう。つまり、Aさんの述べたことは倫理の「理由」としては不十分です。
また、倫理学においては「同じ理由があてはまる状況では、同じ理由で判断を下さなければならない」という考え方が重視されます。例えば、人間と動物との関係において、「犬や猫は可愛いから守るけど、牛や豚は美味しいから食べる」では、自分が可愛いと思う動物のみを保護しているので矛盾しています。動物倫理と聞くと、動物保護や動物愛護を連想する人は多いのではないでしょうか。現在、動物の利用に疑問を提示するさまざまな理論や実践があります。中には実に真っ当だと思われるものもあれば、それとは逆に、違和感や不信感がぬぐえないものもあるでしょう。そうした違和感や不信感は、もしかすると、この「理由」の矛盾にあるのかもしれません。そう久保田先生は示唆していました
動物を食べるということ
動物倫理とは何かを理解した上で、本題の「動物を食べるということ」について考えることに講義は進みました。ここでは、動物を食べることを正当化する際にしばしば挙げられる理由が、倫理における適切な「理由」にふさわしいのかどうかを考えました。
長い歴史の中で、多くの人間は動物を食べて生活をしてきました。「歴史的に人間は動物を利用してきたから動物を食べても良い」ということは、動物を食べる理由としてしばしば挙げられます。しかし、動物倫理は人間同士の倫理の考え方を動物にも適用するものなので、この理由では以下のようなこともまかりとおってしまいます。「人間の歴史において奴隷制は長く続いていたので、奴隷制は問題ない。」このような正当化がまかりとおるとは思えませんね。
「弱肉強食の世界では自然なことだから動物を食べても良い」という理由に対しては、人間社会が弱肉強食なのかどうかを疑う目線が必要になります。人間社会はむしろ、弱肉強食から抜け出ようとしてきたから発展したのではないかと久保田先生は言います。動物倫理の考え方で判断するのであれば、動物にのみ弱肉強食をあてはめるのは、適切な「理由」としては不向きなように思えました。
動物とは何だろう?
なるほど、動物を食べることに対する正当化の理由を細かく考えていくと、適切な「理由」として成り立たない部分があることがわかりました。とはいえ、動物倫理を自主的に考えるのは、倫理学の素人である私たち受講生にとって非常に難題でした。そこで久保田先生は、動物倫理を考える上で必要な2つの観点を提示してくださいました。
①動物がどのような存在なのかを考える
②自分たち、人間の行為のあり方について考える
これらの観点を「動物を食べること」にあてはめると、動物倫理をより易しく考えられるように感じました。動物を「食べられるための存在」として理解した場合、人間の歴史に置き換えると、奴隷として生まれた相手になら何をしても許されるのか?という問いが生まれます。また、動物を「死ぬことは問題ない存在」として理解した場合、その動物の命を奪うことだけでなく、その動物が将来経験したであろう幸福をも奪ってしまうことの是非も考える必要があります。
動物倫理と現代社会
動物倫理は繊細な話題なだけに、理解や共感だけでなく、時に衝突や軋轢を生む可能性を孕んでいます。一方で、様々な価値観を知るための貴重な機会でもあると思います。実際、講義終了後の質疑応答で受講生から様々な疑問や意見が示されたことで、私たちがこれから理解や考察を深める必要がある事柄が、少しずつ見えてきたように思いました。
久保田先生によると、動物倫理の議論が一般社会に広まったのは1975年、女性差別や人種差別を撤廃する運動を背景に、人々が倫理的な事柄を考えやすくなっていた頃なのだそうです。この時代背景は、ジェンダーをはじめとした多様性を大切にしていく現代社会の構造と似ているように感じました。私たちは、社会の問題を有耶無耶にせず、1人ひとりが自分の意見をもって様々な選択をしていく時代の転換点に立っているのかもしれません。
おわりに
さて、このレポートを読んでいるあなたは、講義のタイトルにもあるように「動物理解を問い直す」ことはできたでしょうか。久保田先生は、「『動物とは何か』という多くの人々が既に自分の中にもっている考えを基礎に置いて動物倫理を考えることも大切」と述べていました。久保田先生のこの提案は、これからの社会を作っていく私たちが改めて倫理を考える際の基礎となるものであると思います。久保田先生、深い学びの機会をご提供くださり、ありがとうございました。
最後にもう一度。あなたは、動物をどういう存在として理解していますか?